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いまを生きるための歎異抄入門より~星野富弘さんの詩とかかわって [本(その他)]

星野富弘さんについて、柳田邦男氏以外にも
どなたかが書かれていたような気がしていながら思い出せずにいたのですが・・

3年ほど前になるでしょうか。
青木新門さんの「納棺夫日記」を読んでから、「歎異抄」に興味を持ち、
そのとき読んだ一冊が、佐々木正氏の「いまを生きるための歎異抄入門」でした。

この本には、星野富弘さんの、この詩「いのちより大切なもの」の引用を始め、
キュープラー・ロス、フランクル、河合隼雄、五木寛之、夏目漱石、三島由紀夫、青木新門・・
著名な文学者から心理学者まで、数多くの方々の言葉を引用されています。
また、オウム真理教、臓器移植問題などにも言及されたり、
単に「歎異抄」の解説だけにとどまらず、さらに広がりのある実に内容の濃いものになっています。


佐々木氏は、この本の中で2度、星野さんのこの詩を引用されています。
1度目は「歎異抄」第2章のところ、2度目は「無碍の一道」に触れた第7章のところです。

2度目の引用の中から、次に一部紹介したいと思うのですが、
その引用部分の前に、佐々木氏は<マ・コト>について、
『親鸞が死の問題に直面して求めた「ほんとうの仏教」、この<ほんとう>は、<マ・コト>と同じである。』と述べられています。


以下、p186~

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きることが嬉しかった。


 この詩の最初の2行は、いのちを最大の価値と位置付けたときの、私たちのすがたです。まさに「いのちあってのものだね」ということです。生きることを絶対の価値と見なしている。裏返せば、死ぬことが絶対の悪であり不幸の極みであることになります。
 生という言葉は、言うまでもなく対語です。反対を指示する言葉があるから、その意味が保たれているのですね。・・・・・・
 相対言語は(対語)は、相手がいなくなると存在できないのですね。生は死があってはじめて成り立つのです。その死を否定して生きることは、生を否定することと同等なのですね。死を認めない人生は、生きることの実質を喪失していることになります。
 ですから星野さんの詩の後半の二行は、死ぬ事実を承認したところから、生まれてきた言葉だとおもうのです。生と死が表裏である(仏教では一如といいます)と納得したとき、はじめて感得された実感ではないかと思うのです。死を承認したとき、生だけで成り立っていた価値はすべて色あせてしまう。そのときに<マコト=ほんとう>がいちばん切実な問題として浮かび上がってきた。そのような経路をたどって生まれた言葉が、この詩の後半の二行ではないかと思うのです。



<マコト>とは、親鸞の求めた<ほんとうの仏教>の<ほんとう>と同じであり、
「歎異抄」第7章冒頭の「無碍の一道」にも通ずるものであると、佐々木氏は述べられています。
「いのちより大切なもの」すなわち「マコト」であり「ほんとう」であるものの発見の瞬間
「無碍の一道」が足元に開かれ、「ほんとうの自由」が目の前に広がってくるのだということ、
このマコトについても、佐々木氏はもう少し詳しく述べられているのですが、こちらでの紹介はここまでとしておきましょう。



いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

  • 作者: 佐々木 正
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 新書



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臼田輝くんのことば [本(その他)]

今朝の中日春秋は、ひらがなばかりで綴られたこんな文章で始まっていました。

<てのなかにうつくしいていねんをにぎりしめて いきていこうとおもう。
 うつくしいていねんは しんじつそのものです。 くるしみのなかで ひかりかがやいています>

美しい諦念を握りしめて生きる・・・この言葉を書いたのは15歳の少年、臼田輝くん。
彼は1歳になる直前、都内のマンション5階から転落し、動くことも話すこともできなくなった。
数年後、輝くんの母は、彼の目が輝く瞬間があることに気がついた。
指先のわずかな動きをひろい、文字を表現できる装置に出合い、光が言葉となった。

記事にはつづけて、彼のこんな言葉も紹介されています。

<へいわがくればいい うちゅうがえいえんにじかんのあるかぎり
いつのひか ちいさないのちがうまれて そだっていくように>

<てのなかにあるしんじつは さいわいそのものです。
 のぞめばいつでもてにはいりますが だれもこのことはしりません。
 なぜならにんげんは つねにらくなみちのほうをこのむからです。
 いきるということは くなんとなかよくしてゆくことなのです>

臼田輝くんのこと、少し前に朝日新聞の記事の中でも紹介されていたようです。
http://www.aiiku-gakuen.ac.jp/img174.pdf

<せっかくのことばが ことばとして こうのうがきのように 
 うけとめられてしまいざんねんです(中略)
 すばらしいのはつらくても ことばがあることです 
 ことばこそ ばくたちにとってひっようなものなのです>

言葉こそぼくたちにとって、必要なものなのです・・・
池田さんを想い起こさせる言葉です。

15歳にして、なぜこれほどまで研ぎ澄まされた言葉を表現できるのか、
自らが明かします。

<けっしてなにもするわけでもなく ただじっと ことばだけをつかっていきてきた
 しかも いちどもそのことばを だれにもはなさずに いきてきたので 
 のんふいくしょんのどらまのようなせかいを すごしてきた どらまよりも 
 すさまじいたいけんをしてきた だから ことばがとぎすまされてくるのは
 あたりまえのことなのです>

<きぼうがすっかり きのうのおもいでになってしまったら 
 すなおなきばうの しにたえたきみょうなせかいがおとずれるだろう 
 ついにきぼうのすみきったせかいが おとずれたとき しあわせは
 どういうかたちになるのだろう しあわせはちいさなよろこびとなって   
 しあわせとよぷひっようもなくなるだろう>

輝くんのお母さんが、大学で教育学を学ぶ学生さんたちの前で語られた言葉がまた印象的。

「息子が幸せだったのは文章を残せたことより、重い障害があっても、
 1人の人間として向き合って下さった方々がいたこと。
 子どもの前に立つ皆さん、その子の目の輝く瞬間を、どうか見逃さないでください」


16歳で旅立った輝くん、
研ぎ澄まされたことばの数々は、「輝 いのちの言葉」のタイトルで、
本になったそうです。

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「RAFA MY STORY」 [本(その他)]

先日読んだ本の1つ、「RAFA MY STORY」
これは、映画「インビクタス~負けざるもの」の原作となる作品を書いた、
ジョン・カーリンと、ナダルとの共著ということになっています。
しかし、ナダルが口述したものや周辺の人たちが語ったことを、
カーリン氏が文章化しながら、読みやすく解説をしているというのが実際のところのようです。
負けざるものの原作は読んだことがないのですが、
映画はなかなか面白くて、そのもととなったネルソン・マンデラ氏の伝記も、
おそらくはよく書かれていたのだろうと思われます。
このナダルの自伝も、構成も上手く考えられていて、文章(翻訳ではあるけれど・・)も読みやすくて、
結構分厚い本であるにもかかわらず、一気に読んでしまいました。

2005年の全仏オープン決勝をみて、どこまでも諦めない姿に衝撃を受け、
それ以降、特にグランドスラムに関しては、ほとんどかかさず観てきました。
どんなピンチの場面でもあきらめず、どんなチャンスにも冷静で、
いつも闘争心あふれ、メンタル面の強さはぴか一。
そんなコートの中のイメージとは裏腹に、実際のナダルは、
暗闇や雷、犬さえも怖がる臆病な面や、まわりの人にも影響をうけやすい、
とてもナイーブな一面をもちあわせている、
不安・恐怖があるからこそ、それを押し隠し、
コートの中では強い自分になりきるようにいいきかせるのだという。
この本を読んでみて、これまで抱いていたイメージと随分と違う面がみえてきました。
叔父であり、コーチである、トニー・ナダルについても、
これまでのイメージを覆すようなところがあって、ちょっとびっくり。
まるで哲学者のような含蓄のある言葉を語る、いつも冷静なコーチというイメージだったのだけど、
この本を読むと、どうやらそれほどいつも冷静にいるわけでなく、
結構な短気で気まぐれな一面もあるのだとか。
ラファに対しては、将来のことを考えて、ラファのために・・・
ということには違いないのであるけれど、まわりの人から、
いじめではないかと思えるくらいの厳しさでラファに向かっていったトニーコーチ。
よくぞこの鬼コーチともいえるトニーに、ここまでついてきたものだと、
だからこその強さ、そして謙虚さなのだと、
改めて、考えさせられ、感心させられることがたくさんでした。



以下気になる箇所のメモ、感想など

トニーの言葉から  p61 
「彼は世界の中での自分の立場をわきまえている。誰もがそうあるべきだ。自分は偉大だと思っていても、世界はもっと大きいのだ。」

「すべてを手に入れた人物が他人に横柄に振舞うのは許せない。出世すればするほど、ますます他人に敬意を持って接するべきだ。・・・・・私も彼の両親も、優れたテニスプレーヤーになる以前に、優れた人物であれと常に言っている」


ナダルが、足の怪我のためテニスを離れていた後に、語った言葉から p136
「どの試合も、どの練習も、それが最後だと思ってプレーしなければならない」

初めて怪我によりテニスができなくなったとき、これまで手にしていたものの価値を改めて実感。
同時にアスリートとしての寿命の短さやいつそれがさらに短縮されるかもしれないと
認識するようになり、無駄にできる時間はないのだと思うようになったという。
そして、選手生命の終りを目の当たりにし、怖ろしい経験をしたことで、
精神的に強くなったのだとも語っているのです。
困難や苦労を乗り越え、テニスのできる幸せを噛みしめながら、
さらにエネルギーに変えていったのですね。


フェデラーとの世紀の対戦(2008年ウインブルドン決勝)
2セットオールで最終セットを迎える直前ナダルが考えていたことなど  p154
「第5セットが始まるのを椅子に座って待っている間、前の2セットを取られたことを嘆いたり、最後のタイブレークで5-2とリードしていたのに取られなかったことを引きずったりはしなかった。ダブルフォールトは終わったことだから忘れた。我慢とは受け入れることだ。物事を思い通りにしようとせず、あるがままに受け入れる。そして後ろを振り返るのではなく、前を見る。つまり自分の置かれている状況を把握し、冷静に考えることだ。」


全豪オープン優勝から学んだことについて、ナダルの言葉より   p199 
「・・・勝てるチャンスがどんなに小さくても、決してあきらめず、能力の限界まで自分を追い込み、運を試さなければならない。メルボルンでのあの日、これまでよりずっとはっきりと、試合に勝てるかどうかは心次第で、気持ちをしっかりと強く持っていれば、痛みも含めてどんな障害でも乗り越えられると分かった。心であらゆることを打ちまかせるのだ。」


この全豪オープン準決勝は、同郷のベルダスコと実に5時間を超す試合をし、
心身ともに疲れ果て、めまいと体の痛みで、とても決勝戦を戦えるような状態ではなかったという。
トニーコーチの言葉によって、気持ちを奮い立たせ、決勝に向かったのだという。
そして、みごと優勝!誰もがナダルのことを超人と感じた瞬間でした。
その舞台の裏には、こんなやりとり、ナダル自身の心の葛藤があったのですね。


両親の離婚、相次ぐ怪我による戦線離脱を余儀なくされ、辛い2009年を送り、
その年が終りに近づいたころ、トニーがナダルに言った言葉より  p215
「もう十分だろう。・・・問題を抱えながらも前に進み続けている人は沢山いる。自分だけが例外だとでも思っているのか?」


このころ、メディアでは、ナダルの完全復帰は無理だろうと引退説まで囁かれるようになっていました。
しかし逆にこのことで刺激を受けたナダルは、復帰して引退説を一蹴したいと思うようになり、
そんなときに向けられたトニーコーチのこの言葉、まだ膝の痛みは完全に消えていなかったけれど、
2010年最初のグランドスラムである全豪オープンに向け、フルトレーニングを開始したのでした。
全豪こそは、膝の悪化に寄り途中棄権となってしまったけれど、その後の全仏、ウインブルドン、全米
そろって優勝し、生涯グランドスラムを達成したことは、みなさま(おそらくは)ご存知の通り。


生涯グランドスラムを達成するような一流テニスプレーヤーが、
試合中にどんなことを考えているのか、その心の中の葛藤が生々しく語られているということでは、
テニスをする人にとって、この本はとても興味深いものと言えるのだろう。
もしかしたらテニスに限らず、どのスポーツにも通じるものがあるのかもしれない、そういう意味では
他スポーツををする人にとっても同じく、興味深いものであるのかもしれない。
そして、スポーツをしない人にとってもまた、ナダルや彼の周辺の人たちの生き方からは、
得られるものが多いのではないかと思うのです。
どんなに出世しても、奢らず謙虚に、いつもと変わらない生活を。
あきらめない、努力を続けることの大切さ・・・
そして暖かい家庭というものが子どもの成長過程において
いかに大切で大きな影響を及ぼすものであるのか。
本当の強さとは、優しさとは何か・・・そんなことも考えさせられてくるようであり、
この本もまた、永久保存の一冊になりそうです。


ラファエル・ナダル 自伝

ラファエル・ナダル 自伝

  • 作者: ラファエル・ナダル
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2011/09/30
  • メディア: 単行本



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「パエトーン」 [本(その他)]

山岸涼子さんの「パエトーン」、原発事故の後からネット上で随分と話題になっていたようですね。
山岸さんの作品では、学生の頃に読んだ「アラベスク」、
そして最近になって読んだ「日出処の天子」などくらいしかよく知らなかったのですが、
このような作品を、20年以上も前に書かれていたのですね、驚きました。
なんとかして、作品を手に入れて読んでみようと思っていたのですが、
すでに「パエトーン」が収録されたものは多く絶版になっているようです。
しかし、昨日電子書籍にてやっと読むことができました。
3月の末あたりからネット上で無料公開されていたのですね。
以下、その件に関するニュースより

asahi.comニュース
「原発是非問う漫画パエトーン」、電子書籍で無料公開」記事より
*********************************
 漫画家の山岸凉子さんが、チェルノブイリ原子力発電所の事故後に原発の是非を問うた作品「パエトーン」を、電子書籍の形で無料公開している。福島の原発事故直後、ネット上で話題になったのがきっかけ。先月25日の公開以来、15万回以上読まれている。

 チェルノブイリ事故から2年後の1988年に発表した。ギリシャ神話に出てくる高慢な少年パエトーンは、太陽神の日輪の馬車を暴走させ、あわや地球を焼き尽くしそうになる。
 作品はこのパエトーンを、原子力を制御できると信じる人間に重ねて描く。さらに原発の仕組みや日本の原発分布、日本で事故が起きた場合の影響などを、図入りで説明している。

 公開した潮出版社によると、福島の事故直後、ネット上で「まさにパエトーンの状態だ」と話題になり、山岸さんに知らせると、「ぜひ無料公開したい」と返事があったという。
 チェルノブイリ事故後、山岸さんは原発について本で学び、「今、日本で起きてもおかしくない」と危機感を覚えたという。
 「原発は、ひとたび事故が起きれば人間の力で制御できないほどのエネルギーを持つ。メリットに対するリスクが大きすぎ、25年前と危険は少しも変わっていない。原発について、一人でも多くの人に考えてもらいたい」と話す。
**********************************

作品の前半部分は、ギリシャ神話にでてくる「パエトーン」についての物語

太陽神アポロの日輪の馬車を、人間の身でありながら操ろうとし、
あげく広大な土地と人々を焼き払うことになってしまった、愚かなパエトーン
神をも超えられるとおもったのか、と人間であるパエトーンの
思慮浅さと傲慢さに対する批判は当然のこととして。。
私は、太陽神アポロが、人間には操ることができないことを知っていながら、
なぜパエトーンに「日輪」を貸し与えてしまったのか、不思議に思えてしまうのです。
もしも操ることができなくなったら、その時にはどうなるのか・・
アポロは知っていたのであろうに。
パエトーンの懇願に負けてしまったということなのでしょうか。

神でさえも御することの難しいものを操ることができると思い込んだ人間の傲慢さ
その危険性を知りながら誘惑に勝てずに許してしまう人間の弱さ、
漫画から人間世界のそんな構図を思い浮かべてしまいました。

作品の後半部分は、チェルノブイリの事故後に、著者が調べたことをもとに
原発のしくみ、もしも原発で事故がおきたらどうなるのか、
プルトニウムやウランなどについてもわかりやすく説明されていました。
放射性元素は超新星爆発のときに生まれたものだとか、なかなか興味深く、
また核分裂でうまれるプルトニウムは地獄の神プルトーンの事とか考えてみると
改めて恐ろしくなります。

それにしても、20年以上も前にこのような作品を書かれているとは、
先見の明があるというか。。
山岸涼子さんが心配されていたようなことが、今回実際におきてしまって、
ご本人もさぞ驚き悲しんでいらっしゃることでしょう。
そして、「パエトーン」を通して多くの方に原発問題について考えてほしいとの願いから
今回電子書籍と言う形で無料公開されることになったのでしょう。
これが、事故の後でなくて、事故がおきる前により多くの人に読まれていれば・・
いや、たとえ読まれていたとしても、真剣になって考えた人はどれだけいたのか。
やはり悲しいことに人は、大変な事態が実際におきてみないと危機を感じることができない、ということなのでしょうか。

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「納棺夫日記」と宮沢賢治 [本(その他)]

映画おくりびとの感想をこちらに書いてから、「納棺夫日記」についても・・・と思いつつ
なかなか書けないままに、また1カ月が過ぎてしまいました。
でも、まぁこんなことは、今に始まったことではないんですけど。。

「納棺夫日記」は「おくりびと」の元になった作品なのですが、著者の青木氏が
自分の宗教観が反映されていないからなどの理由で、自分の作品とは別物として扱ってほしい
と希望されたということは、有名な話です。
実際作品を読んでみると、「納棺夫日記」の前半部分には「納棺夫」となった経緯や体験、
そのことに関する思いなどが描かれています。
しかしその半分以上を占めているのは、多くの宗教書からの引用文や青木氏自身の「生や死」に対する考え方について書かれたものでした。
その中には、あちこちでよく目にする本のタイトル、宗教家や作家の名前など、実にたくさん。
親鸞、釈迦、蓮如、道元、イエス、キュープラー・ロス、ゲーテ、宮沢賢治、金子みすず、「星の王子様」や「般若心経」、あるいは科学やアニミズムについてまで。
中でも、その中心となっているのは、主に親鸞の思想なのではないかと思えました。
親鸞の「教行信証」や「歎異抄」などから引用をしながら、特に青木氏がこだわったのは、不思議な「ひかり」のことでした。
親鸞が不可思議光と名付けたこの「ひかり」は、日常我々が見ることはできないのだという。
では、どういうときに出会うことができるのだろうか。
青木氏は、「人が死を受け入れようとした瞬間に、なにか不思議な変化が生じるのかもしれない」と言いつつ、そんな瞬間に、あの「ひかり」に出会うのではないだろうか、と語ってみえます。
私自身は、そのような自覚できるような経験はないので、その「ひかり」がどのようなものであるのか、はっきりとはわかりません。
でも、晴香とともに、長い間病院暮らしをした後にみた、山や木々の緑、桜の花が、それまでになく
美しく輝いてみえたのは、青木氏が言われる「世界が輝いてみえた」ことに、ほんの少しかもしれないけど通じるものがあるのかも・・・と思いめぐらすこともありました。
一方で、ただ単に、解放感によるものかもしれない、とも思えてきたり・・・で、やっぱりよくわからない、というのがほんとうのところです。

この作品の中に書かれている作家や引用文には興味深いものがたくさんあり、
中でも、宮沢賢治について書かれた部分には、とても興味を惹かれました。
最愛の妹「とし子」の死に臨んで書かれた「永訣の朝」を読み
妹「とし子」の死が、賢治にいかに大きな影響を与えたのか、初めて知ることができました。
実は、私が小学生のころ、宮沢賢治の童話集を何冊か読んでいたのですが
このような詩を書いていたことは、今まで知りませんでした。
たくさん童話を読んでいたものの、まだ幼かったせいもあったのか
宮沢賢治の作品の多くが、宗教的なテーマで書かれたものであるということには
ほとんど気がついていなかったようです。
晴香を亡くした後しばらくして、下の娘に「銀河鉄道の夜」の絵本を読み聞かせていたのですが
その時にも、この作品のことをあまり理解できていなかったように思います。
特に布団の中で眠い目をこすりながら読んでいたこともあって、内容の理解には程遠かったようです。
今回、この「納棺夫日記」の中で、「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニは、”賢治の分身”と書かれているところをみて
「あっ、そうだったのか!」
と初めて、この作品に込められた深い意味に気付いたのです。
それから、カンパネルラが、亡き妹「とし子」の分身だということに気付き、
さらには、ジョバンニの語る言葉に込められた意味は?乗客の言葉は?
いろいろ出てくる宗教的な表現に込められた賢治の思いとは?
などなど、さらにいろいろ知りたくなってきて、ネットであれこれ調べるうちに、
詳しく書かれたサイトをみつけました。
賢治の見た夢~銀河鉄道の夜→http://contest.thinkquest.jp/tqj2002/50133/

「銀河鉄道の夜」も宮沢賢治も、実に深い。
今まで、賢治の作品を読んでいながら、どこまで理解していたのだろうか。
これは、もう一度読みなおさなければ・・・
ということで、宮沢賢治の作品や、宮沢賢治について書かれた本など数冊、
図書館で借りてきました。
昔読んだ短編童話のあれこれが、まるで違ったものに思えてきます。
そうそう、宮沢賢治とともに、親鸞の「歎異抄」について書かれた本も同時に読んでいます。
「歎異抄」は「納棺夫日記」の中でも触れられていたものです。

この本から始まって、「飛鳥へそしてまだ見ぬ子へ」それからキリスト教へ。
「銀河鉄道の夜」から宮沢賢治へ。
「納棺夫日記」から、いろいろなところへと広がっていきました。この本を読んでよかった。。

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最近読んだ本 [本(その他)]

なかなか書けないでいる間に、読んだ本があれやこれや。
ちょっと一言書き残しておきたい・・・とおもいつつ
ただ時間ばかりがどんどん過ぎてしまいました。

今読んでいるのは、遠藤周作氏の「眠れぬ夜に読む本」
本屋さんで、みかけてタイトルにひかれ、衝動買いしたもの。
最近、年のせいか寝つきが悪くて・・(笑)
ところが、冒頭からいきなり
キューブラー・ロス博士の著書『死ぬ瞬間』のことに触れられており
「死によって肉体と共に我々の意識も消滅するのではなく、意識は昇華されて
新しい別の世界に行く・・・」
なんて書かれているものですから、
読んでいて眠くなるどころか、ますます目は覚めてきてしまったりするわけです。
最初の章のタイトルは「生と死について考える」となっているので
こんな内容が書かれていても不思議はないのだけど。。
ただ、遠藤周作エッセイ
『「宇宙は大きな生命体であり、地球もその宇宙に参加している小生命体だ」という考えは21世紀の大きなテーマになるような気が素人ながらしてならない』
なんてことが書かれているとは、読み始めるまでは思ってもみなくて、少々驚いた。

以前飯田史彦氏の「ツインソウル」を読んだ時には
死後の意識とか前世とかいう考えには、そうだったらいいなとおもいながらも
なんとなくちょっとありえなさそうと思う気持ちのほうが強かったように思う。
その後、「生きがいの創造」を読む機会があり、多くの体験者の言葉や、
著者の科学的な分析や、淡々と書かれた文章を読み進めていったり
あるいは、そのほかにもいろいろな本を読んだりしているうちに
現実の目に見える世界ばかりがすべてではないかも
こんな世界もあるかもしれない・・と期待もこめて、以前よりかはそう思うようになってきた。
驚くことに、あの池田さんも、「魂とは何か」の中で、この本のことにふれられている。
そして『その手の本は、普通は「オカルト」である。しかし本書にはそのような抽象や主張がなく、語り方は清潔だった。』とも。
自分が感じたこと(以前の日記にも書いてるけど→http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2008-06-03)と同じようなことを池田さんも書いてみえて、ちょっと嬉しかった。
ただ、一点気になること。
それは、池田さんが、この「魂とは何か」の元になった「魂を考える」を、自身の希望で絶版にされていること。
なぜ、絶版にされたのだろうか。
理由があってのことなのだろうけど、それがなにかわからないから、気になってしまう。
どなたか、理由をご存知の方があったら、ぜひ教えてほしい。

池田さんの本は、他にも「人生は愉快だ」とめずらしくBOOK OFFでみつけて買った「41歳からの哲学」、それと、「死とは何か」
同じ時にBOOK OFFで買った二ールドナルドウォルシュの「明日の神」(神といってもあの世間一般でいう神とはちがいます・・いわゆるここでの神とは自分でありあなたであり宇宙であり・・・といったもの)
もっと前のになると、河野義之氏の「命あるかぎり~松本サリン事件を超えて」
これを読んでから、同じく犯罪被害者の書かれたものを読もうと
門田隆将氏の「なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日」
まだ読みかけのものもあるけれど、どれもなかなか読みごたえのあるものばかり。
一言残しておきたいのだけど、なかなか書けないので、今はせめてタイトルと著者名だけでも
ここに記しておくことにしよう。

こういう類の本を読むことが多く、身近な人に本の内容など話そうものなら
「大丈夫?なにかへんな宗教に影響されたの?」
なんて言われたりしそうで、なかなか話せない。
ここだけにこっそり(?)書くことくらいしか今の自分にはできない。
いわゆる宗教には興味はないのだけど。。
それでも、世間一般から見たら、生とか死とか、輪廻転生とか宇宙とか
そんなことを考えたくなる自分は、やっぱりヘンな人にみえるのだろうか。

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生きがいの創造 [本(その他)]

少し前から読んでいた、飯田史彦氏の「生きがいの創造」 やっと読み終えました。
以前、この方の著書「ツインソウル」については日記にも書いたことがありますが。。
そのときにはツインソウルとか、自分の生涯をあらかじめ設定してから人は生まれてくる
というあたりのことが、どうも受け入れられなくて、ちょっと批判的なことも書いたりしてました。
今回、最初からそういうものかなとおもいながら読み始めたせいか
以前のように、いやだなとおもうこともそれほどありませんでした。
それよりも、著者自身がわりあい冷静な立場で書かれていること
前回のツインソウルよりも、いろんな人の事例をもちだして
科学的に(ということになっています。。)検証されていること
真偽のほどはわからないけど 、読み物として、おもしろかったです。
それに最近、物理学者とか数学者の立場で
異次元の存在について書かれているものを、ちょっとみたりして(しっかり読んで理解するほどの知識も理解力もないので。。覗き見程度)
いわゆる肉体としての死後の世界というものがあっても、おかしくないのでは
とおもったりしているので。
余計にこういう読み物についても、案外こういうこともあるかもしれないなあって
いろいろ想像しながら、楽しむこともできました。

魂があって、今の自分の体はこの物質世界での借り物であり
肉体の死とともに、魂は体を離れ、別次元の世界に帰って行く。
魂は永遠であり、また生まれ変わる。
今の親や子ども夫婦はまたいつか別の体をもって、生まれ変わる。
そして再び出会い、成長するために経験を共にする。。
人は、死んだらおわり・・と考えるよりは
こんな風に想像し、魂の存在を意識して生きていくほうが
なんとなくロマンがあって、おもしろいですね。
それに、もしそうだったら、亡くなった人ともまたいつかあえるわけですから。
晴香もどこかで魂として存在しているわけで。。

まあ、本当のところは、自分が死んでみないことにはわからないのですけどね。
そうそう、そんなこと書きながら、死というのは存在しないのでした。 (池田さんも常々おっしゃっていることですが。。)
もし、死んだら「無」になるのならそれを認識する自分はいないのですから
もし、死んでもいわゆる魂のようなものは残るのなら、それは死ではないのですし。
「死」というものが存在しないと考えると
今生きていることに対しても少し考え方が変わるように思えます。

どっちにしても、生きてる間にはわからないことなのだから
どういう風に考えても、その人の自由でいいんじゃないのかな
って今は、そうおもえます。
飯田さんは、TVなどによく出演している方々のように
押し付けがましくないところがいいですね。

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「悲しみがやさしくなるとき」 [本(その他)]

先日自由書房にふらりと立ち寄ったときに
ある1冊の本が目にとまりました。
「悲しみがやさしくなるとき」
副題には子どもを亡くしたあなたへ
とありました。

この間の日記にはつぎは飯田さんの本でも・・・
と書いていたけれど、先にこちらの本が読みたくなり
購入してしまいました。

子どもを亡くされたたくさんの方、
そしてその言葉なども紹介されていました。
リンカーンリンドバーグ、ケネディ・・・
いつの時代でも、子どもを亡くすということは
その親にとって、世界がひっくりかえるほどの大きな悲しみをもたらします。

書いてあることの一つひとつがどれもみな、心当たりのあることばかり。
まるで鏡かなにかで心の中を映し出されているかのようでした。

「私たちが子どもの死にこれほど打ちのめされる理由は何でしょう?
最もわかりやすい理由はおそらくこうです。生物に共通する自然の法則によって両親や配偶者の死に対する心構えはできていても、子どもの死に対する心構えはできていないのです・・・・」

医療が発達した現代では、人の「死」は、どこか遠くにあるもの
ましてや自分より若い子どもにも、縁のないもの
心構えなどできているはずなどないのです。
だから、子どもになにかあれば、天地がひっくり返ってしまうようなおもいにもなるのです。

「もう一つの理由として考えられるのは、子どもを保護すること、子どもの安全を守ることが親の務めに含まれているということです。
子どもの死は悲しみをもたらすばかりでなく、ちゃんと守ってやることができなかったという罪の意識をもたらすことがあります・・・」

子どもを亡くした後に罪の意識に苛まれるのは、親としての自然な感情からだったのですね。
私自身もおぼえがあります。
その時は、なんだかよくわからないままもやもやとしているばかりだったけれど。。。

他者(他人および家族など)との関係において感じる、違和感や戸惑い、すれ違い
などなど、他にも自分自身が感じたり、悩んだおぼえのあることも
たくさん書かれていました。

「お子さんは何人?」
と聞かれた時に、一瞬どう答えようかと戸惑う気持ち。
これも、まさに自分が感じた戸惑いそのもの。
(たしか自己嫌悪というタイトルで日記にも書いていたと思うけれど・・)

他にもたくさん、
これまで自分が感じてきたことが、そのままそっくりと書かれているようで
驚きと、なんだかわからないけれど安心感と(たぶん自分の感じてきたことが自然なことなのだとわかったから?!)をあたえてくれた本でした。

この本のほかに、またまた池田晶子さんの本を購入してしまいました。
「暮らしの哲学」と「残酷人生論」の2冊。
飯田さんの本はその後で。




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ずっと つながってるよ~世田谷一家殺人事件から6年 [本(その他)]

毎年、12月30日になると思い出すことがあります。
世田谷一家殺人事件。
今日でもう6年にもなるのですね。
あれほど、物証があるというのに
いまだに犯人が見つからないのは残念でなりません。
親族のみなさんは、どのようなお気持ちですごしてみえることでしょう。

あの事件がおきたとき、晴香はとてもショックを受けたようで
テレビで報道される度に、熱心に画面をみつめては
「お母さん、恐い事件だね。はやく犯人みつかるといいね。」
と何度も言っていました。
あの頃、晴香は小学校6年生くらいだったでしょうか。
まだ発病する前で、とても元気だったころ。
晴香があのような病気になっていなくなってしまうなんて
考えてもみなかったころです。

今でも、この事件のことを耳にする度に
晴香のことを思い出します。

先日、生協の注文書の中に
「ずっと つながっているよ」
と言う本をみつけました。
これは、この事件で亡くなった奥さまのお姉さんが書かれた絵本です。

この本を生協でみつけたとき
おもわず、注文していました。
タイトルにもひかれたのですが
なによりも、この事件のことを晴香がとても気にかけていた言うこと
そのことがあったから。

この絵本には、家族4人が大切にしていたテディベアの「ミシュカ」の目を通して
亡くなったにいなちゃんとれいなちゃんたち家族のことが描かれています。
目にはみえないけれど、思いはずっとつながっているよと
ミシュカは呼びかけます。
優しい文と絵から、作者の入江さんの思いが伝わってくるようです。

世の中には不条理なことが満ちあふれていますが
この事件も、まさにその1つ。
私には願うことだけしかできませんが
どうか、1日もはやく事件が解決しますように。

ずっとつながってるよ―こぐまのミシュカのおはなし

ずっとつながってるよ―こぐまのミシュカのおはなし


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東京タワー [本(その他)]

夕べやっと放送されましたね。

実はこの原作本、夏休みに家族みんなで読んでました。
ドラマの方は、録画しておいたものを途中までみたところ。

いつもおもうけど、原作読んでからドラマや映画みると
なんとなく物足りなさを感じてしまいます。
限られた時間の中で映像化しようとすると
どうしても限界があるのでしょうね。

原作はなかなかよかったです。
中2の娘は前半はあまりおもしろくないよ。
といっていたけど。
私くらいの年代には、この本に描かれている時代背景がなにか懐かしく感じられる。だからなんでしょうか。最初からおもしろく読めたような気がします。

リリーさんの「おかん」は、すてきな人。
明るくて、なにより子どものことをとっても大切に思ってる人。
リリーさんとおかんのお互いを思いやる気持ちが、あったかくてほのぼのしてくる。親子の絆っていいなあと思えてくる。

最後におかんが癌で亡くなるときにリリーさんが言った言葉。
「ボクが子供のころから一番恐れていたこと。宇宙人の襲来よりも、地球最後の日よりも恐れていたこの日。」
愛する人が亡くなるとき、世界が滅亡するよりも辛いことに思える。この気持ちよくわかります。自分もそうだったから。

リリーさんの言葉のひとつひとつが心にしみてきて
最後にはそうだねそうだねと心の中でうなずきながら読んでいる自分がいました。

ドラマはまだ後半部分みてないけど
やっぱ、リリーさんの微妙な心情を理解するには
原作読むのが一番なんでしょうね。


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