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選挙、そして池田さんの遺した言葉 [池田晶子]

今年は夏が長く、10月に入ってからも30度を超えるような日もあったのですが・・
秋になったかな、とおもったのもつかの間、
あっという間に紅葉も散り、厳しい冬がやってきました。
本当にこのところ、夏と冬が長く、過ごしやすい春や秋が短くなってしまいましたね。

気がつけばもう師走。
ただでさえ慌ただしく落ち着かないこの時期に、
朝から賑やかな宣伝カーが次々にやってきては、大きな声で叫んでいきます。
このあたりは岐阜1区になるので、
昨日は、民主党の柴橋候補の、今朝は日本未来の党の笠原候補、そして自民党の野田(聖子)候補の宣伝カーがやってきては、「よろしくお願いします!」と、決まり文句を連呼していきました。

こういう中身のない、ただうるさいだけの宣伝カーって、ほんと意味がないのになあって、いつも思う。
意味のないことなんかやめたらいいのにと思うのだけど、慣習になってることってなかなかやめられないんだろうなぁ。。

それにしても、今回の選挙、多くの人がそうであるように、
私自身も誰に投票したらいいのか、決めかね悩んでいます。

「美しい日本を守るため・・・」とおっしゃる某政党党首。
原発を稼働し続けて、美しい日本が守れるのだろうか。
福島の人たちは原発事故のせいで、故郷の美しい自然溢れる多くの土地を奪われているというのに。

「過去の失敗を教訓に、今度こそ国民のために・・」
とおっしゃる某政党候補者。これまでのことを考えてみても、どこまで信じていいのやら。。

選挙戦をまえに、急に政党を変わる候補者が増えたり、
政策の違いがありながらも、政党同士でいっしょになってみたり・・
まあ、政治家は当選しなきゃ始まらないから、そういう気持ちはわからないでもないけれど、
言ってることがころころ変わったり、簡単に主義主張を変えたりするのは、
ほんとうに信頼していいのかと、不安になってきます。


真に国民のことを思って行動してくれる候補者がいるなら、
迷わずその方に一票を投じたいのですが・・


先日ネットを見ていたら、池田晶子さんがかつて新聞に投稿されたエッセイをみつけました。
その中に、政治家について書かれた箇所もありました。

『・・・政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。・・・』

14年も前に書かれた文章のようですが、今もそのままにあてはまる言葉ですね。
池田さんはこういう政治家のみならず、非難する人たちについても、厳しくおしゃってます。

『・・国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。・・』

『・・・世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。・・・』


どの政治家の言葉も虚しく聞こえ、誰も信頼できない気がする・・
そんな風に感じている自分に対しても、どきっとさせられる言葉です。

たしかに他人のせいにしてばかり、ではなにも善くはならないですね。
忙しさの中、じっくりと考えることをつい避けがちになってしまいますが、
逃げないで、もっと根本に立ち戻って考えていかないといけないのですね。
池田さんのおっしゃることは、政治や社会に関することばかりではなくて
もっと広い意味でおっしゃっているのでしょうけれど・・

だけど、しかし、目の前の選挙、
とりあえずは、自分なりに考えて、一票の行き先をきめることにしないと・・


新聞記事のなかの文章は目黒被災さんのブログより
http://megurohisai.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3473.html


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池田晶子さん、今年で5年 [池田晶子]

このところブログの更新が滞りがちになっています。
書けるのは、月に1度かせいぜい2度くらい、中には1度も書けなかった月もあります。
以前は書かずにいられないような気持に襲われたりもしたのですが、
そういう衝動のようなものが、徐々になくなってきたのかもしれません。

それでも、ニュースをみたり、本や新聞記事を読んだりすれば、
あれこれおもうことや、ちょっと書き留めておきたいなとおもうこともあります。
そのときにちょこちょこっと書いておけばいいのでしょうが・・
そのちょこちょこっと書くということがなかなかできない。
書き出せば、おもいは膨れ上がり、おそらくはちょっとでは済まなくなってしまうだろうから。
それに、すっきりと頭の中が整理されているわけではないから、
書き出せば、きっと悩みながら考えながら、思いのほか多くの時間がかかってしまうだろうから。
気がつけば、あのことも、このことも、書かずにきてしまったなあというのが本当のところ。

先日の23日は、池田晶子さんの5回目の命日でした。
私が池田さんのことを初めて知ったのは、彼女が亡くなった直後のこと、
あれから5年が経つのですね。
最初の1年目は、実にたくさんの作品を読みました。
「14歳の哲学」や「人生のほんとう」「あたりまえのことばかり」「残酷人生論」
「勝っても負けても41歳からの哲学」「暮らしの哲学」
これらのどれもが印象的なのですが、中でも「暮らしの哲学」は一番好きな1冊、
「残酷人生論」は今も私にとってバイブルのような存在です。

その後も、「知ることよりも考えること」「死と生きる 獄中哲学対話」などなど・・・
たくさんの作品と出会ってきました。
池田さんの作品との出会いは、私にとってなくてはならないものであったし、
それは今でもかわらず、そしてこれかもずっと。
その時その時で必要な出会いというものは、人と人の間に限らず、
人と書物、人と作家との間にもきっとあるのでしょう。

池田さんが亡くなられた後、当然新たに書かれることはないわけですが、
新シリーズが出されたり(これまでのものをまとめたり、新たな装丁で再販されたり・・)
これまでの作品も、絶えることなく版を重ねているようです。
作品を通して今も私たちに多くを語りかけてださっているようであり、
まさしく池田さんが日ごろおっしゃっていた「魂は存在し続ける」、これですね。

池田さんがよくおっしゃっていた、「善く生きることにこそ意味がある」
このことについて、しばらく考えていました。
娘を亡くした後にも、無常観に囚われ、不条理に憤りや虚しさをおぼえたものですが、
今回の震災を目にして、あのころ味わった強い感情が再び蘇ってくるような感覚を覚えました。
もちろんそういう感情を、しばらく忘れていたわけではなく、
年月と共に、少しずつ心の奥に奥にと仕舞い込んでいっていたと言った方がいいのかもしれませんが。。

人はいつか必ず死ぬ、
それなのに、たとえいかに生きたとしても意味があるといえるのだろうか。
そんなことを考えながらも、だからといって、
「人生に生きる価値はない」と中島義道著書タイトルの如く、言い切っておわってしまうのもなんだか虚しい。

そんな中、年末から年始にかけて、久しぶりに池田さんの著書を読んでみました。
「考える日々Ⅲ」、パートⅠとⅡはもうずいぶん前に読んだのだけど、
シリーズ最後であるこの本は、読みたいと思いつつ実際に手に取るまでにかなり時間が開いてしまいました。
いつでも読めるかなという気持ちと、なんとなく読んでしまうのがもったいないという気持ち両方からなのか。

この作品は、2000年の12月に初版が出版されているようですから、
かれこれ11年ほども前に書かれたことになるのですが、
中に取り上げられているニュースネタなどはともかく、書かれている内容自体は、
今にも通じる普遍なもの。
読みながら付箋だらけになってしまいました。

そんな中から、上に書いたことに関連する個所を、ちょっとだけこちらにもメモ。

『ソクラテスの意志』p243 L10~12
ある価値がその価値たりえるのは、それらを価値たらしめている精神がそこに自覚されているからでしかない。精神を自覚することなしに、いかなる価値も価値たり得ない。

この後、「生きる意味」について「善くあること」について、もうちょっと頭の中を整理したく、
以前読んだ『残酷人生論』を再び開いてみました。
今回はとくに、「善悪」「魂」「幸福」と、後半部分を特に中心として再読しました。

「幸福」人生は終わらない p225にはこんなことが書かれていました。

  人生は今回限りではない
  人生はこれで終わりではない
これである。この認識の厳しさこそが、善く苦しむための力なのだ。なぜなら、魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労に終わったことにはならないからである。今回は今回で立派に完結するからである。
  どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

 
> どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

最後のこの箇所には、ガツン!と頭を叩かれたような気持になってしまった・・
以前読んだはずなのに忘れていたのか自分。


再び『残酷人生論』より
「善悪」善悪は自分の精神にある p161~

 人の世の「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし道徳は強制だが、倫理は自由である。倫理は、直観された善への必然的欲求として行為されるから、自由なのである。善は、決して強制され得ない。それは、欲求されることができるだけだ。

善とは道徳ではない。欲求されるものである。
魂を意識してあるよき精神にこそ価値があり、善への必然的欲求もおきてくるというわけなのだろうか。
魂、精神・・・池田さんの書物を読み考える上で、大切なキーワードですね。

もうちょっと考えてみたくて、今はフランクルの『それでも人生にイエスという』を読み始めています。
読み終えたらまた、ここに本のこと書きたい、けれど・・・できるかな?

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「私とは何か」 [池田晶子]

この本が発行されたのは、ちょうど1年ほど前のこと。
「魂とは何か」「死とは何か」との3部作として出版されたうちの1冊。
他の2冊は発売後すぐに読んでいたのですが、この本だけはまだ読んでいませんでした。

この「私とは何か」の中で、とくに印象に残ったのが
最後の「空を飛べたら」
これは、池田さんが小学校6年生のときに書いた作品なのだそうです。
著者本人が
”私は非常に作文が好きだった。しかも、うまかった。自分で言うのもなんですが”(P.113)
というだけあって、この作品も、小学校6年時に書かれたとは思えないほどのすばらしい出来栄え。
いろいろな鳥がでてきたり可愛らしくて、ほのぼのとしていて
それでいて何か考えさせてくれるような深いものがあって、
なんとなく宮沢賢治の童話を読んでいるような感覚にもなりました。
実際、賢治の童話集の中で、私のお気に入りの1つでもある「気のいい火山弾」に、
通じるものがあるように思えました。

最後の、「編集事務局・記」(P.247)の中に、次のように書かれていました。

・・・・・・独自に開拓した日本語による「メタフィジカルエッセイ」に加えて、「メタフィジカル物語」を構想していた著者の夭折がなければ、その仕事の先には、物語世界の広大な沃野が展けた可能性があった。読者にとってこの作品が、その可能性の一端を想像するよすがとなれば幸いである。・・・・・

池田さんが書かれる「メタフィジカル物語」
是非に是非に読んでみたかった
ああ、残念でならない。。



私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2009/04/02
  • メディア: 単行本



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「考える日々」「考える日々Ⅱ」 [池田晶子]

「考える日々」に続いて、「考える日々Ⅱ」を読み終えた。
Ⅲも読んでから、まとめて書こうと思っていたのだけど、こちらはまだしばらく後にしか読めそうにないので、とりあえずここでいったんまとめておくことにしよう。

私が池田さんの本の中で一番最初に知ったのは、「14歳からの哲学」
これは、訃報を知らせるニュースのなかで、
「『14歳からの哲学』の著者池田晶子」と伝えられていたから。
でも、一番最初に読んだのは、「勝っても負けても41歳からの哲学」のほう。
そして、その次に娘にも読んでほしいと思い、「14歳の君へ」を。
この2冊を読んで、これは他のももっと読まなくちゃ・・・となり
その後も「14歳からの哲学」「あたりまえなことばかり」「人生のほんとう」「暮らしの哲学」・・・
と立て続けに数冊。

どちらかというと、中期から後期にかけての著書を読むことが多かったのだけど
今回の「考える日々」「考える日々Ⅱ」は「オン!」とともに比較的初期の頃の作品になる。
池田さんと言えば、もともと歯に衣着せぬ物言いする人というイメージではあったけれど
これら初期の頃の作品はさらに”切れ味鋭く”といった感じを受けた。
それでも、情緒あふれる最後のころの作品をすでに読んでいて、
穏やかなイメージの池田さんを知っているからなのだろうか
ちょっと強すぎるかなと感じられる物言いにも、むしろ若き日の血気盛んな池田さんを垣間見るようで、
なにか微笑ましくさえ感じられたくらい。
それに、自分では言えないけど、日ごろおかしいと思っていることに対して
池田さんが代わりにすっぱりと言いきってくれている・・
すっぱりばっさり、すっきりと・・・と、もしかしたら本の中で、自分自身が知らず知らず池田さんになっているのかもしれない。

他にも、いろいろな方の名前が登場している。
養老猛は、池田さんの他の著書の中にもよく出てきますね。
小林よしのりの名前が出てきたのにはちょっとびっくり。
お二人がもし対談されたらどんなことになるのかな、と想像しながら読んでいたら、
思わずふふっと笑えてきた。おそらく、話がうまくかみ合わずじまいで終わっちゃうのでは。
五木寛之の「大河の一滴」についても、批評されてますね。
といっても、池田さんはこの本を読まれたわけではなく、
「希望をもつから絶望するのだから、絶望から始めるのが生き抜くコツだ」
という宣伝ステッカーをみてのこと。池田さん曰く、
『「哲学的に正確を期すならば「希望も絶望もじつはないと知ることが、生きて在るそのことだ」』
とのこと。
実は、五木寛之の「大河の一滴」は、池田さんの本と出会う前に読んだことがあり
当時、数冊読んだ五木さんの本の中でも、一番印象に残っているもの。
このブログにも、この本のこと少しだけ書いてました。

http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2006-02-19

「いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だとあきらめることからはじめよう」
この部分が、とくに”あきらめる”という言葉が、絶望に打ちひしがれていた当時の自分に響いたよう。
でも、池田さんは、絶望も希望もないのだとおっしゃっている。
この本を全部読んだ上での感想も、聞いてみたかったような。
もう今となっては叶わぬことだけど。。


「考える日々」でも「考える日々Ⅱ」でも、夢と現について書かれていて、
どちらもなかなか興味深い。
たとえば、「考える日々Ⅱ」の中の「とろけた自我は世界の側へ」p112~

夢と現の境目で、トロトロウトウトしているときに気持ちがいいのは
自我がとろけてなくなっているからなのであって、
現実世界で、人は自我という武装をして、自分とはまた別物と思いこんでいる他人の自我と
ぶつかり合うから、疲れるのだという。
現実世界も夢の世界となんの違いがあるのか、現実も夢も同じ自分の夢であり現実である、
と池田さんはおっしゃる。
自我なんてものを自分だと思うのは、ただの思い込みなのだともおっしゃる。
だとしたら、夢の世界と同じように、現実世界でも自我の鎧をはずし、他人も同じだとおもえば
もっと人は楽に生きられるということなのだろうか。
そうは思っても、この自我というのがやっかいなもので、なかなか手放すことができない、
自我の鎧をまとって、身動きとれなくなることもしばしば。そんな自分を別のところから
眺めているもう一人の自分がまたいたりして・・「ああ、またまただめだなぁ・・」なんて呟いたりしてる。
自分は心が弱いからなのか・・でも、池田さんでも、「頭からふとんを被って終日身動きせず、寝返りひとつ打たない。打てなくなる・・(p38)」こともあるそうで、なんだかちょっと安心したり。池田さんでもそんなことがあるんだな、って。。


最後に、「考える日々」の中で、特に印象に残った部分。
「宇宙自身を考えるために」p102~

「進化論的には、脳があるから考えができたのではなく、考えが在るから脳ができたのだ。
光があるから眼ができたように、考えが在るから脳ができたのだ。明らかに考えのほうが先なのである。」

こんな風に考えたことがなかったから、この部分を読んで、う~んと考えこんでしまった。
深海に住む魚には眼がないという、それは光がないから。
光がないところには眼がいらない。同じく考えがなければ、脳はいらないというわけで
あらかじめ宇宙に考えがあるからこそ、脳が発達したというわけだ。
この考え方、そんなばかなぁ~と言ってしまえない、自分にとっては、上手く言えないけど
なるほど、なるほど~って感じ。
この考え方って、池田さん自身が考えられたことなのかな。
それとも進化論の考え方として、どなたかが言われたことなのだろうか。
もし池田さんが考えられたなら、すごい!と思うのだけど。。

他にも面白かった部分はたくさん。
でも、すでに限界を超える長さになってしまっているので、このあたりで。
つぎは「私とは何か」それから「君自身に還れ 知と信を巡る対話」を読もうかな。

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池田晶子さん~今日で3年~ [池田晶子]

本日2月23日は、池田晶子さんの命日。
私が池田さんのことを知ったのは、彼女の訃報を伝えるネットニュースから。
彼女の本を続けて読むようになったのは、その直後からだから
私が池田さんの本と出会ってからも、3年が経つというわけです。

ここしばらく遠ざかっていたのですが、
今年に入って、再び池田さんの本を何冊か読んでいます。
先日も、図書館へ出かけ、まだ読んでいない本を、借りられるだけ借りてきました。
「ロゴスに訊け」「オン!埴谷雄高との形而上対話」「私とは何か」「考える日々Ⅱ」
現在、最初の2冊を交互に読んでいるところ。
あっちもこっちも読みかけてしまうのが、私のいけないところ。
1冊の本を集中して読んだ方が、ほんとうはいいのだろうけど・・
他の本も気になって、読み終わるまで待てない、誘惑に弱い自分。。

今読んでいる「ロゴスに訊け」にも「オン!」にも、科学について、宇宙についての記述が度々でてきて、なかなか興味深い。(「オン」とはギリシャ語で「存在」を意味するらしい)
前回「ダークマター」なんて記事を書いたように、私も少し前から、科学とか宇宙物理とか、わからないくせに、興味関心だけはあるので、自分にとってちょうどタイムリーな感じでもある。
ただ、池田さんは、科学や宇宙に興味があると言っても、興味の持ち方は一般人のそれとはちょっと違うようです。
たとえば、「ロゴスに訊け」の中で、次のように書かれています。

(居ながらにして宇宙旅行 p47)
「・・・・宇宙と宇宙論好きとして、この種の科学番組は、科学的認識の最前線を手軽に知るためには、それなりに重宝である。「それなりに」というのは、宇宙について考えるとは哲学的思考にとっては、科学とはあべこべの方向から考えるということに他ならないからである。科学がそれを自明とし信じている前提を、信じないところから哲学は始まるからである。」

さらに、後半部分では次のようにも
(オカルトよりも不思議なこと p187)
「・・・宇宙の構造がニュートリノの存在によって証明されたところで、そのニュートリノが存在するということ自体の不思議が、不思議でなくなるものだろうか。宇宙が宇宙として存在するということそれ自体の不思議が不思議でなくなるものだろうか。・・・」

なるほど、科学で宇宙について解明されても、存在の謎自体は何も解決しないというわけなのですね。
池田さんの言葉は、いつも新たな視点を与えてくれます。
ダークマターやダークエネルギーの正体がわかれば、宇宙の謎やさらには自身の存在の謎を知るための手掛かりが、少しは得られるのでは・・・と考えている自分にとっても、さらに考えさせてくれる言葉です。

もう1冊読みかけている「オン!」
こちらには、埴谷雄高氏との対談、それと池田さんの最初の作品でもある「最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論」などが収録されています。
対談形式ということもあり、お互いの本音がのぞいたり、
若き日の池田さんの、”不思議で不思議でたまらないこと”が知りたくてでもわからなくて悶々としている様子など、エッセイでは見られないような部分が垣間見られたりして、なかなか面白い。
でも、語られる内容は、時にめちゃくちゃ難しく、
特に埴谷さんの「死霊」からの引用文など、意図するものを理解するどころか、何が書かれているのか理解するのも一苦労。
1度読んで、よくわからなくて再度読み返して・・・次第に意識が遠のいて、気がついたらテーブルに突っ伏していたり・・なんてことも時々(^^;)
そんな難しい部分もあるけど、それでも何故か引き付けられるものがある。
この本にも、科学や宇宙について度々触れられています。
その中で、ホーキング博士について書かれた箇所がなかなか面白い。少しだけ引用してみます。

(最後からひとりめの読者による「埴谷雄高」論 p42)
「・・・最も冷静な学問であるはずの科学が、その冷静さにおいて、形而上学に場所を譲らなければならなくなる地点がある。それらの宇宙を認識している「私」の位置を明確にすべきときだ。ホーキングは既に知っている、*「生きながら死んでいる」ような宇宙は、科学の対象ではない、対象をもたない純粋なそれだけの「考え」であることを。そしてそんなふうに「考え」でしかないような、果てしなく続くいかなる宇宙も、また、どこまでも「私」であることを。」

お二人の対談の内容は、ときにとても難解なのだけど、
頭のなかにある、もやもやとしたものが、どこかで少し繋がっていくような
そんな何かもあるようで、魅力的。
それでも、埴谷さんの生涯かけた作品「死霊」を読もうなんていう根性は、全くありませんが・・

他にも、夢について・・(p44)、観念は大脳がつくりだしているものでなく、時空をこえて初めからそういったものがあるのでは・・(p90)など、なかなか面白かった。
夢についてや観念についてなど、同じようなことが「考える日々」にも書いてありましたが、
これについては、ⅡやⅢを読んでから、機会があればまたいつか書いてみたいと思っています。

もうしばらく、池田さんの世界に浸ることにしましょう。
久しぶりで、ちょっと懐かしい感じ。
なんとなくホッとした気分になるのはどうしてなのかな。。



*「生きながら死んでいる」ような宇宙
前の部分で、ホーキング博士が語った「虚時間」についての説明を受けて。
彼の理論として、一般相対性理論と不確定性原理とを統一したとき、そこには「虚時間」という概念が生じてくるのだといい、そこは、身籠りながら若くなるような、生きながら死んでいるような、そういう珍妙な宇宙なのだという。


ロゴスに訊け

ロゴスに訊け

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本



オン!

オン!

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1995/07/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)



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追悼池田晶子 [池田晶子]

先日の土曜日23日は、池田晶子さんの一周忌だった。

私が池田さんのことを知ったのは、昨年の3月のこと。
不思議なもので、私は池田さんが生きている間は
彼女のことをまったく知らなかった。
亡くなったあと、彼女の存在を初めて知った。
そして、彼女によって書かれた書物をたくさん読んだ。
その間、彼女がなくなってしまった人であるという感じがなぜだかしなかった。
文章の中で、彼女は今も生き続けているという言い方をするのが、一番適切なのかもしれない。

あれからはや1年近く過ぎたのだけど
はや1年もたつのかというおもいと
同時に、まだ1年しか経ってないのかというおもいも同時にある。

それは、この1年でずいぶんとたくさん、池田さんの著書を読んだから。
今読みかけているものも含めると全部で12冊。
まぁ、以前からどちらかというと気に入った作家のものを
続けて読む傾向はあったのだけど、それでもこういう類の本を
これほど何冊も読んだのは、おそらく初めてだろう。


最近読んだものは、次の3冊。

死と生きる―獄中哲学対話

死と生きる―獄中哲学対話


『死と生きる 獄中哲学対話』は、死刑囚と池田晶子の哲学往復書簡。
書簡とはいえ、中身は凝縮されたものがあり、ときには立ち止まって考えたり
で、読み終えるのにはかなり時間がかかってしまった。
死刑囚という「死」と向き合うという意味では究極の立場にある陸田真志とのやりとりは
生半可ではない真剣勝負。
2人の息詰まる言葉のやりとりからは、読んでいてもその緊迫した雰囲気が伝わってくるように
おもえたし、また、殺人犯であり死刑囚である陸田氏が、池田さんの本とであうことで
これほどまでにも、世の中の見方が、生と死に対する考え方が、見事にかわるものなのか
と、驚かされもした。
死刑囚陸田真志の言葉にもまた、考えさせられるものがあった。
表題をみても想像できるように、内容は決して軽いものではないけれど
一読の価値はあるとおもう。


人間自身―考えることに終わりなく

人間自身―考えることに終わりなく

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2007/04
  • メディア: 単行本



睥睨するヘーゲル

睥睨するヘーゲル

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1997/01
  • メディア: 単行本


『睥睨するヘーゲル』は今読んでいる最中。
といっても、池田さんの本以外にも、東野圭吾とか最近話題
『チーム・バチスタの栄光』などのミステリーものにもしばらく夢中になったりしてたので
こちらは、その合間をぬってぼちぼちで、なかなか読みすすんでないのだけど。。

12冊読んだといっても、池田さんが書かれたものの中ではまだ一部。
読んでいないもののは私が知っているだけでもまだ20冊以上。
まだまだ読もうと思えば、読むものはある。
全部読み終わるまでは、新たな池田氏と本の中で出会うこともできるのかもしれない。
でも、もっともっと書いてほしかったという思いもある。
今読んでいる『睥睨するヘーゲル』と、最後に書かれた『暮らしの哲学』
では、受ける印象が少し違って感じられる。
もし、彼女が生きていたら、これから書かれるものはまた少し雰囲気がかわっていたのかもしれない。
もっともっと年を重ねてから書かれたものが読んでみたかった。
それが、とても残念。

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出会いの奇跡~「暮らしの哲学」より [池田晶子]

前回に引き続いて、池田さんの作品『暮らしの哲学』より。
池田さんの最後の一年を綴ったエッセイ。
そのためなのだろうか。
これまで読んできた池田さんの作品とは、がらりと趣が変わって感じられる。
なかでは、四季折々の生活の中で池田さんが感じたことやおもいが
情感豊かに語られている。

最初の章の『春に思う「この感じ」』や
夏休みは輝く』は季節感たっぷり。
また、過ぎ去った子供時代をおもい懐かしさと
切なさがこみ上げてくるよう。

愛犬との別れを綴った『「彼」と出会えた奇跡』や
『あなたの親は親ではない』
は、出会いの奇跡について改めて考えさせられる。

『「彼」と出会えた奇跡』より
*************************************
ひとつの命の誕生から死亡までを見届けるというのは、しかも深く愛していたその者を見送るというのは、やはり悲しいものだなあ。だから、子供に先に逝かれたしまった人の悲しみがどれほどのものか、これは思うにあまりあります。・・・・・・・でも、そうやって悲しんでいるうちに、気持ちに少しずつ変化が生じてくるのが感じられるようになる。
出会えたということだけで、素晴らしいことだったじゃないか。・・・・・
なるほど彼とはもう二度と会えない(のかもしれない)、それはとても悲しい。しかし会えたということは、会えなかったのかもしれないのに会えたということなのだから、これは奇跡的なことじゃないか、素晴らしいことじゃないか。
そうして、出会えた彼と、出会えた縁への感謝に似た気持ちが悲しみに代わるようになったころ、同時に、彼は死んだけれども、いなくなったわけじゃないという深い確信も訪れていました。・・・・・・・・・・・
************************************

そして、この、「死んだけれどもいなくなったわけではない」という言表が、正確にはなにを言っているのかはわからないが、霊とかお化けとかそんなものとして存在していると言う意味ではなく
そうではなくて、全部がつながっているという感じであって、何かのご縁で出会えたのだからそのご縁のままにつながっているじゃないかとも。

私がこの4年間、移り変わってきた気持ちと
池田さんが愛犬を亡くして以来感じてこられたおもいとが
重なります。
大切な人やものを亡くして悲しむ気持ち
そして、その後に感じるおもい
亡くしたものが違っても、そのおもいに違いはないということなのでしょう。

そして、このことは人間同士のあらゆる関係においても言えることであり、
人と人との出会いは、本当に奇跡的なことなのだ
これは親子の間であっても例外ではないのだとも。
『あなたの親は親ではない』では、おもに親子の出会いの奇跡について書かれている。
親も子も、無辺際の宇宙の中で、たまたま出会ったのであって、
その出会いはまさに奇跡
つかの間の時間を過ごし、そしていつかどこかへと別れていく
いずれみな、宇宙の旅人なのだと。

こんな風に考えながら子どもと接してみると
わが子が今までとは違ったようにもみえてくるから不思議。
池田さんもいってるように、こんな感じ方をしていたら、親子関係ももっと味わい深いものになるのかもしれませんね。

暮らしの哲学

暮らしの哲学


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いつのまにか [池田晶子]

11月も後半になってしまいました。
前回の日記が10月19日なので、1ヶ月以上も更新してないことになります。

いろいろ思う事や書き留めておきたいことはあるにはあったのだけど・・・
どうも最近疲れやすくなったのか、パソコンに向かっても
なかなか書こうという気力がわいてこない。

忙しくても、疲れていても、
書かずにいられないときは、今までにもあったのだけど。。
書いて発散したり、まとまらない思いを書くことによって
頭の中や、心のうちを整理してきたようなところがあったので
まぁ、そういう意味では、書かないでいられるというのは
いいことなのかもしれないなぁ。。

ところで、ずいぶん前から読み始めた池田さんの本2冊、
やっと読み終えました(^^;)
2冊のうち、あとから読み始めた「暮らしの哲学」は
割とはやく、数日で読んでしまったのだけど
最初に読み始めた「残酷人生論」のほうは、読み終えるのに
何日もかかってしまった。
特別本が分厚というわけでもないのだけど
非常に凝縮された内容になっているので
錆付き始めた自分の頭ではすんなりと理解や納得できないことも。
読んでは、考え、また読み返してみたり。。そして時にはしばし中断したりとかも。
そんなわけで、読み終えるまでに思いのほか時間がかかった。

考えさせられることはたくさんあったのだけど特に
「倫理は自由である。そして道徳は強制である。」
「善悪は精神にあり。」
「幸福は外ではなく内にあり、宿命は魂にある。」
などなど。。たしかにそうだなぁと共感させられたところもいろいろ。

ある人がこの本のことを、池田晶子の集大成ともいえる「14歳の哲学」に繋がる、
非常に大切な本だと書いていたように、自分にとってもこれからも手元において
読み返したい本の1つになりそうです。

一方の「暮らしの哲学」は
これまで読んできた池田さんの作品とは雰囲気ががらりと変わっていて
ちょっと驚きでした。
長くなりそうなので、この本については、いつかまた改めて書くことにします。

残酷人生論―あるいは新世紀オラクル

残酷人生論―あるいは新世紀オラクル


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夏休みも終わり [池田晶子]

今日で8月も終わり。
本来ならば、明日から娘たちも新学期になるはずですが・・・
今年は9月1・2日が土・日になるため、新学期は3日から。
2日分、夏休みにおまけがついた感じです。

さて、今年の夏休み。
かたまり始めた脳味噌を少しでもやわらかくするべく
受験生の娘といっしょに、私も机にむかって
読書や勉強をしようか・・・
などど、始まる前はおもってました。

おもってはいたのですが・・・・
なかなかじっくりと机にむかうことはできないものです(意志が弱い自分・・)
それでも、お盆を中心に、読みかけだった本
積ん読してあった本を何冊か読破できました。

読みかけだったのは、池田晶子さんの「あたりまえなことばかり」
以前このブログにもちらりと書いたことがありますが
残り3分の1くらいを残して、ずっと読みかけのままになってました。
一気に読んでしまえばいいのですが、いったん中断するとダメですね。
とくに、この本は私には難しい部分が多くて、読むのにも時間がかかり
理解するのにも苦労しました。というかたぶんいまだに理解しきれてないのかも。

それより、その後に読んだ
「人生のほんとう」のほうがわかりやすかったので
こちらから読み始めればよかったのかも。
これは、池田さんが講演されたときの内容を本にまとめたもので
話し言葉で書かれているので、こちらのほうが読みやすくなっていました。

あとは、「知ることより考えること」
これは、週刊新潮に連載されたものがまとめられた
短編エッセイで、さらりと読めるものでした。

次は飯田史彦氏の本でも
読んでみようか。「ツインソウル」以来だけど。。

人生のほんとう

人生のほんとう


知ることより考えること

知ることより考えること

  • 作者: 池田 晶子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2006/10/17
  • メディア: 単行本


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14歳からの哲学 [池田晶子]

池田晶子さんの「14歳からの哲学」が、
中学3年生の国語の教科書(光村ともう一つ何処かの出版社)
に載せられているときいてから、
どのように紹介されているのだろうか、ずっと気になってました。
沙織はこの4月から3年生。
新しくもらってきた国語の教科書も光村図書だったので、さっそく確かめてみました。
「読書案内」のところで、やはり「14歳からの~」が紹介されていました。

4年前に晴香がもらってきていた教科書には載ってなかったので
それ以後の改訂版から掲載されているんですね。

14歳からの~とありますが
実際には、後半部分は17歳から~となっていますし
内容は大人が読んでも十分な内容だと思います。

私が14歳のころにこの本に出会っていたらよかったのに・・・
とも思いましたが
現実にもし、自分が14歳のころにこの本が出版されていたとしても
読んでいたかどうかは疑問です。
自分が中学生の頃は、小説とか、とくに推理小説なんか夢中になってたけど
こういう類の本はあんまり読まなかった気がするし。

でも、14歳くらいのときに、こんな本にであって、いろんなことを考えていたら
世の中を見る目も自分自身を見る目も、ちょっとかわっていたかもしれないなぁ
という気もします。

ところで、池田晶子さんについてのHPやブログなどをたどっていたら
この「14歳からの哲学」の執筆を池田さんに依頼したという方のブログを発見しました。

以下に、リンク貼っておきます。興味のある方はどうぞ↓
私はなぜ池田晶子さんに『14歳からの哲学』の執筆を依頼したか
「自力で出版」篇
http://www.transview.co.jp/blog/archives/2003/03/n14.html


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