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平生へ [その他]

こんにちは!お久しぶりです。
こちらのブログ、ほとんど休眠状態になってますね。
今回どうしても書いておきたいこと
書いておかなければならないことがあり、久しぶりにブログを開いています。
かなり長くなりそうですが、もしよかったら、お時間のあるときにでも読んでみてください。


以前このブログにも何度か父のことを書いてきましたが、
その父といっしょに行きたいと思っていた、山口県の平生に、
先日、とうとう行ってくることができました。

平生のことは、この日の日記に書いています。
「15歳の志願兵」より→
http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2010-08-13

いっしょに平生へ行こう、
という父との約束は果たせなかったけれど、
大学最後の年を迎えた娘が、今回いっしょについてきてくれました。

娘は来春から社会人。
その前に、母娘で二人旅を、と計画した2泊3日の旅初日に、
平生の阿多田交流館を訪れました。


岐阜から平生までは、東海道線、新幹線、山陽本線、そして岩国からはレンタカーで
約5時間半あまり。朝早くでかけてついたのはちょうど正午ころ。
ほとんど半日がかりでした。
阿多田交流館に到着したときは、「ああ、やっと来ることができたなぁ」との思いが込み上げてきました。

交流館は、想像していたよりはこじんまりとしていました。
玄関正面には、真っ黒で大きな回天のレプリカが、どんと置かれていました。

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以前父に戦時中の話を聞いた時、
初めて平生に来て、回天を見たときに、
「真っ黒で窓のない、以前の魚雷学校で見たものとは比べ物にならないくらい大きくて驚いたし、
その異様なすがたはなんとも言えなかった。。怖いともおもった。」
と、父が語っていたことが思い出されました。

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こんなものに独り乗って、敵艦に体当たりしていくなんて、
考えただけでも身がすくみ、心臓が凍りつきそうです。

このような兵器が作られ実際に使われていたことが、
信じられないというか信じたくないというか、、
しかし現実にあったことなのですから、ちゃんと目を背けずに向き合わないといけません。


ということで、早速中に入り見学しました。
展示物は、当時使われていた教科書やノート、回天についての説明書き、
実際に使われていた軍服や旗や小道具、模型、千人針、寄せ書き、
みなさんの写真、回天で出撃された方たちが書かれた手記や手紙など。

当時使われていたというテキストの内容は、数学や物理など専門的なことで、
パッと見ても難しそうな内容。当時実施訓練だけでなく、
高度な専門知識も要求されていたのだということがわかりました。

こちらは大神基地のサイトより、回天の訓練内容について解説されています。
(回天基地は、山口県の大津島・光・平生、大分県の大神、全部で4か所あったそうです。)
http://oogakaitenkiti.wkeya.com/02oogakiti_3.html
こちらによると、回天の訓練には、大きく分けて、
学科訓練の「術科訓練」と、回天操縦訓練の「練成訓練」があったとのこと。
やはり、座学でもかなり勉強されていたようです。


手紙や手記、ノートの文字など、達筆なものが多く、それだけでも驚きだったのですが、
さらに、両親や身内の方々に対して書かれたその内容は、胸に迫るものがありました。

手紙のほとんどに、お国のためにわが身を捧げることは日本男児として本望・・という記述があり、
またどの手紙にも共通していたのが、両親や兄弟姉妹、祖父母、恋人や友人
などに対する感謝の気持ちと、自分が亡きあと、身内のことを心配した内容。
国のためという以上に、自分の父や母、愛する人たちを守るために出撃されていったのですね。
出撃されなくなった方たちの年齢は19歳とか21歳とか、ほとんどが20歳前後のまだ若き人たち、
周りの人たちのことを想うその純粋な気持ちに触れ、心震わせずにはいられませんでした。


戦後、部下の後を追うように自決されたという特攻隊の隊長であった橋口寛大尉、
隊長というからにはいくつか年上なのだろうから、30代くらいかとおもえば、
なんと21歳だったという。
部下とさほど年もかわらず、まだまだ年若いではないか。。
係り員の方のお話では、この橋口大尉がとくに、16歳以下の年少兵を可愛がっていたのだそうです。
父も当時16歳だったから、このお話をお聞きしてまた余計に親近感が湧いてきました。

当時どんな気持ちで部下に接し、終戦を迎え、そして自決されたのか。
残された橋口大尉の自啓録も展示されており、そこに書かれた言葉を読むと、
何十年も過ぎた今でも、その強い念が伝わってくるようです。

『君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを、
噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。
後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや』(遺書一部より)

自身、何度も出撃を願い出たのだけれど、教官として部下を育てる立場にあったため
なかなか許可がおりません。
何度も懇願した末、ようやく許可がでたのが8月20日出撃、
その前に終戦を迎えました。
多くの部下や仲間が戦死した中で、自分だけが生き残ると言うことは
考えられなかったのでしょう。
8月18日、ご自身が乗るはずだった回天の操縦席で拳銃自決されたのだそうです。

これほどに、部下や仲間のことを想い、人望もあった大尉が自決されてしまったこと、
残念でなりません。
もし生きていらしたら、戦後きっとどんなにか活躍されたことでしょう。


橋口大尉にかかわらず、実際直接現場でかかわっていらした方たちのほうが、
搭乗員や整備員のみなさんの気持ちがわかっていたようです。
そう思わせるような文章が展示物の中にもありました。

特攻兵器である回天は、いったん出撃すると敵艦に体当たりすることが目標とされているから、
生きて帰ってくることはすなわち失敗を意味するということで、
出撃し戻って来た者に対して、将校は酷く非難する。
しかし部隊の直接の指導者は、将校に対して、そのような叱責は、日々過酷な訓練を繰り返し
必死で頑張っている搭乗員の立場や気持ちをなにもわかってない、あんまりではないか、と書かれている。
(原文に書かれていたものを思い出し、概略のみまとめてみました。)

これがどういうものに書かれたのか(単に個人の日記なのかどうか)よくわからなかったけれど、
こういう文章をみると、現場で直接戦っている人たちと、日常的に現場に関わることなく
上から目線で物事を考える立場の人では、違ってきがちなのだと感じさせられる。
これはなにも戦時中にかぎらず、いつの時代でも同じようなことが言えるのでしょう。
戦後何十年も経った今も、残念ながら同じく。。



当時16歳だった父も、整備士としてその地にいたわけですが、
交流館の係りの方のお話では、整備の人たちもとても大変な思いをされていたのだという。
実際整備には3日間30時間もの時間がかかったらしい。
上の大神基地のサイトによると、一度訓練に使われた回天は、すべて分解し、
部品をバラバラにした後、また組み立て立てなければならなかったのだとか。
しかも、大神基地では30時間かかるところを、半分の時間で整備するように要求されていたとも。
平生の基地ではどうだったのかはわからないけれど、おそらくは同じようなことがあったのかもしれない。
整備と言えど過酷な任務であったにちがいないのでしょう。

以前父が、
整備員も搭乗員と一緒に乗っていった・・
と話していたことがちょっと疑問におもわれていたので(回天は一人乗り)
このことも尋ねてみたところ、
訓練では整備員もいっしょに乗っていくことがあったのだとか。
平生では訓練中に整備員が乗った時に事故がおきたことがなかったということですが、
他の基地ではもしかしたらあったのかもしれない。と話して下さいました。



全体を見学するのに1時間余り、
その後係員の方に、さらにいくつか質問をしたところ、親切にお答えくださいました。

不思議に思ったことの1つ、
出撃された方の多くが、甲種飛行予科練習生出身と書かれいることに対して、
なぜ飛行機乗りの方たちが、回天の搭乗員に選ばれたのかということ、
係り員の方のお話では、
終戦間際は飛行機が不足してしまったため、パイロットとして訓練を受けていた兵隊さんの多くが、
こちらの基地に配属されてきたのだそうです。
もちろん、特攻に対しての希望調査の上ではありましたが。
その調査は、熱望する・希望する・・・・辞退する
などのようにいくつかの項目があったそうですが、ほとんどの人が熱望すると回答されていたのだとか。
それ以外のところに丸をつけるということは選択肢としてありえなかった、
当時はそんな雰囲気だったのでしょう。

飛行機乗りが一転、回天搭乗員に。
おぼろげながらに聞いてはきたものの、実際に回天を眼の前にしたときには、
どんな気持ちになったことでしょう。
平生から出撃され亡くなられた方の多くが、この甲種飛行予科練習生出身だったようです。


この交流館近く、かつて回天の訓練が行われた海の見える場所に
回天記念碑が建っていました。
碑には、この平生から回天で出撃され亡くならなられた方(5名)、
訓練中の事故で亡くなられた方(3名)のお名前と、
終戦後に自決された橋口隊長のお名前が、刻ま込まれていました。

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周辺の海には国際貿易港ができており、立ち入り禁止になっていました。残念・・


記念碑の傍らには、回天の説明書きがありました。
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穏やかで美しいこの平生に、かつて過酷な訓練が繰り返された
回天の基地があったこと、
どれだけの人が知っているのだろうか。
ここで実際に訓練を受けていた人たちも、すでに高齢になられている。
ほぼ最年少ともいえる年だった父も、2年前に83歳で亡くなってしまった。
いつの間にか忘れ去られてしまうことのないよう、
これからも伝え続けていかなくてはいけない・・
こんな非人道的で悲惨極まる作戦が現実に行われていたということを・・・


父の水兵姿の写真を記念碑の前において、お参りをしてきました。
いっしょに写真も撮ってきました。
父は、どこかで見ていてくれたかな。

お父さん、やっと行ってくることができたよ。

平生、柳井、周防大島、
このあたりの穏やかで美しい海と多くの島々、
今も思い出されてきます。
思い切ってでかけてきて、ほんとうによかった。



交流館の中では、写真を撮ってこなかったのですが
こちらのサイトでは、阿多田交流館の内部の様子や、
個人のプライバシーにかかわらない範囲の写真や説明など、
かなり詳しく見ることができます
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn012/atadakou/atadako1.html


最後に、阿多田交流館のある田名一帯は、戦前のどかな塩田風景が広がる地域でしたが、
戦時中、この地に基地建設をするため、多くの住民の方が強制移住させられたのだそうです。
阿多田交流館前には、その住民の方々87名の名前が刻まれた
「ふるさとを偲ぶ」という碑が立っています。
何もなかったところに基地が作られたわけでなく、
多くの住民の方々の犠牲の上に作られた基地だったのですね。
戦後もずっと土地の返還運動があったそうですが、
住民の高齢化が進み、結局返還は果たされないままに、
1996年に和解したのだそうです。
この地には、回天の基地としてだけでなく、このような歴史があったのですね。




今回の旅のことは、
こちらのブログにも書いています。
よかったらどうぞ見にいらしてくださいね^^
http://diarygreen.exblog.jp/22298627/


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父との別れ [その他]

3月に肺がんが見つかり、闘病中の父が、17日夜亡くなりました。
わかったときにはすでに胸膜、リンパ節など、全身に転移。
余命半年とのことで、覚悟はできていたつもりだった。。

病院でも、亡くなった後父が実家に帰って来た時も、
みんなの前ではそれほど涙はでなかったけれど、
娘が名古屋へ帰って行き、久しぶりに一人になってみると、
昔のこと、病院でのこと、父の言葉・・
いろいろなことが、あれやこれやとおもいだされ、
ああ、お父さんはもういなくなってしまったんだなぁとしみじみとしてくる。

たくさん話をしたはず、病院へも何度も通って、多くの時間を共に過ごしたはず・・
それでも、それでも、もっとああしてあげればよかった、あのことも伝えておけばよかった、
もっといろいろなところへ一緒にでかければよかった、と想いはつきません。
こんな風におもうのは私だけじゃなくて、誰しもが、大切な人とどんなに長く一緒に過ごそうとも、これで十分だということはないのかもしれません。

父が最期に心配していたのは、やはり母のこと。
そして、戦時中の同期生だったー当時の傷がもとで今もつらい思いをしているというー友人のこと。
最期のときになっても、当時のことが蘇ってくる、戦争体験というものは強烈な記憶として、おそらくは、
何十年も父の心の奥底にとどまりつづけていたのでしょう。

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父が15歳で入隊したときの写真。 「大日本帝国海軍」の文字が。
平生へ一緒に行くという約束を果たせなかった。。 「お父さん、ごめんなさい」


大好きな父
この世の中で一番、おそらくは無条件に私のことを愛してくれた人が、
この世からいなくなってしまった・・

さみしくて仕方がないけれど、
父自身は、痛みや苦しみ、不自由だった身体から解放されて、
今は、あちこち自由に駆け回っているのかもしれません。
もしかしたら、晴香とも再会しているのかも。。

最期のときに父には、「あちらにいったら、晴ちゃんによろしくと伝えてね。」と
頼んでおいたから、今頃は2人で笑って、私たちのことを見ているのかもしれません。
そんな風に想像していると、悲しさや淋しさが幾分か和らいでくるようです。

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命のメッセージ展 in岐阜 [その他]

今月2日から14日まで、JR岐阜駅構内にあるハートフルスクエアG2階にて、
命のメッセージ展が行われています。
地元紙朝刊で知り、先日近くまで出かけた折に、寄らせていただきました。

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今から4年ほど前
映画「0からの風」を見に行ったときにも、会場で規模を縮小して展示されていたので
見せていただいたことがあるのですが、
今回はその時に続いて2度目。
交通事故や犯罪などで理不尽に命を奪われた子どもさんたちの等身大の人型
それに書かれたご家族からのメッセージ
そして、生前お子さんが使われていた靴・・
中には、ネットで知り合った方の名前もあり、改めてメッセージをじっくりと読ませていただきました。

このメッセージ展については、もう何年か前のことになりますが、
このブログでも触れたことがあります。
造形作家である鈴木共子さんが、一人息子の零君を交通事故で亡くされ
その後、この経験や命に対する思いをアートという形で人々に伝えていきたい、との考えから
このメッセージ展を始められたとのこと。
詳しくは以前に書いたこちらの記事に→http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2008-05-28

その後、同じような経験をされ、鈴木さんの活動に共鳴された多くの方が協力され
国内のあちこちでこのメッセージ展が行われているようです。
私が訪れたこの日も、他県からおみえになっていた方がお手伝いをされていました。
メッセージ展にはお子さんを亡くされた方も、よくいらっしゃってくださいますよという
お話でした。やはり同じような経験をした者同士通じ合えるものがあるのでしょうね。
このメッセージ展は、思いを共感し共有できるというそういう点でも、意味のあるものなのでしょう。
しかし、子どもさんを亡くした方ばかりでなく、そうでなくて普段命の意味などさほど深刻に
考えたりすることのない方々にもみていただいて、命について考えてもらう機会にしてもらう
ということにおいても、きっと大きな意味があるのでしょうね。



メッセージ展について、上記リンク先にある「命のメッセージ展」HP内にも
その理念が書かれています。

『人が暴力的にいのちを奪われることなく精一杯生きることが出来る社会を夢見ています。
戦争はない、殺戮はない、犯罪はない、被害者の生まれない世界。
しかし現実には多くの生命が犯罪や社会の不条理のもとに生命を断ち切られています。
ひとつとして忘れることの出来る生命はありません。
彼らの生きた証を私たちがたどれば亡くなった生命がそのことを教えてくれるはずです。

メインの展示は犠牲者一人ひとりの等身大の人型と彼らの遺品の「靴」。靴は彼らの生きた証の
象徴です。
人型には一人ひとりの素顔や遺された家族の綴ったメッセージが添えられています。
多くの人々が現実を知り生命の重さを考えてもらうために、日本全国、そして世界各地へと
巡回展をしています。

私たちは人型となった犠牲者たちのことを、生命の大切さを伝える「メッセンジャー」と呼んでいます。
一人でも多くの人が「メッセンジャー」に出会って頂きそのメッセージをうけとめて頂きたいと
願っています。』


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ゴンちゃん [その他]

豪雨のあとは猛暑。
岐阜は全国でも暑いところとしてすっかり有名になってしまいましたが、
今年の夏は例年以上に厳しい暑さに見舞われています。
ここ数年、35度を超す猛暑日は、特に珍しいこともなかったのですが
この夏は、梅雨明け以降ずっと連日ですから、さすがに参ります。
昨日一昨日と降った、まとまった雨のおかげで、
気温は下がり、久しぶりに30度をきりました。
雨がやみ、再び太陽が顔を出してきたと思ったら、
ぐんぐんと気温が上がってきたので、今日も最高気温35度を超えるのかもしれません。
ちょっと涼しかったのは、ほんの束の間だけのよう。
これから来週にかけて、再び気温は36度、37度とあがってきそうです(´_`。)

この暑さの中、人間だけでなく、動物たちもバテてる様子。
先日実家に行った時、お隣のゴンちゃん(20歳を超す老犬)も、
起き上がる気力もなく、地べたにべったりと這いつくばってピクリとも動きませんでした。
ただでさえ、老衰で(人間でいえばもうすでに100歳を超えているとのこと)
あちこち具合がすぐれないのに、この暑さの中、さぞかしシンドイことでしょう。

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写真は2年前のお正月に撮ったもの。
あのころはまだ、一緒に散歩に行こうとする気力があったのですが・・
その後、目もほとんどみえなくなり、胃腸の働きも弱まり、今では歩くこともままらない様子。
1年くらい前には、ご主人にひきづられるようにして、ヨタヨタと歩いている姿を見かけました。
今ではもう散歩をすることも難しくなってるのかもしれません。

ゴンちゃんが、お隣にやってきたのは、晴香がまだほんの小さなころ。
沙織が生まれる前のことでした。
だから、子どもたちが物心ついた時には、すでにゴンちゃんがいたわけで、
実家に遊びに行き車から降りるたび、いつも真っ先に迎えてくれたものでした。
若いころのゴンちゃんは、それはそれは元気で、とりわけ小さな子どもたちが大好きで・・
娘たちがそばにくると、ちぎれんばかりに尻尾を振ってじゃれてきて・・
そんなゴンちゃんに、幼い娘たちは興味津々、ちょっとこわごわだけど、頭をなでたり
声をかけたり。
実家の姪たちは、ゴンちゃんにすっかり慣れて、ゴンちゃん~って呼びかけたり、さわりまくったり
まるで自分たちが飼い主であるかのようでした。
子どもたちとともに成長してきたゴンちゃん、
犬の寿命が13年とか14年とか言われている中で、20年以上もの歳月を生きてきたのは
むしろ奇跡的なのかもしれません。
お隣のご主人の愛情と適切な対応や処置があればこそなのでしょう。

それにしても、人間も熱中症で倒れたりするほどの、この酷暑。
すでに弱り切っているゴンちゃんには、辛いことでしょう。
果たして、この夏を無事に乗り切ることできるのでしょうか。

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トニー・ナダル~クレーキングを育てた人 [その他]

今年の全仏オープンテニス、男子シングルスで、
2年ぶりに、クレーキング、ラファエル・ナダルが優勝しました。
ローランギャロス5度目の優勝です。
ナダルが初めてこの地で優勝したのは、今から5年前の2005年のこと。

奇しくもそのときの決勝、対プエルタ戦をテレビで観戦。
どんなボールにもあきらめないで、コートサイドの端から端まで追いかけ
走り続けるナダルの壮絶な姿に感動。
そしてまた、なんて面白いんだろうと、
以来テニス観戦に目覚めてしまったというわけなのです。
それまでは、特に男子の試合の場合、
サービス一本ですぐに決まってしまい、ラリーが続かない、単調・・
と、どちらかというと面白みに欠けるというイメージを抱いていました。
自分でプレーするのは楽しいけど、積極的にテレビ観戦しようとはあまり思いませんでした。
このイメージをガラリとかえてくれたのが、ナダルだったというわけなのです。

2005年初めての全仏優勝時のナダルは、19歳になったばかり。
まだ20歳にも満たない若者が、なぜこれほどまでにも、精神的に強いのか。
ピンチにも動揺しない、チャンスにも慌てない
優勝しても相手の選手を敬い自分自身はあくまで謙虚。
この姿勢はクレーキングと呼ばれるようになってからも、ランク1位になったときも
そして今もかわらない。
どうしたらこんな風になれるのか。
試合をみるたびに私の中の疑問が膨らんでいきました。

そんなとき、いつもおじゃましているtennisnakamaさんのブログに、インタビュー記事が載せられていました。
ナダルのコーチであり叔父さんでもある、トニー・ナダルの言葉には私が抱いていた疑問の答えになるようなものがありました。
この人あってあのナダルがあるのだなぁと。
これは少し前の記事なのですが(2年ほど前)
こちらにも、一部引用させてもらいます。

tennisnakama「ナダル感動のストーリー」より
http://www.plus-blog.sportsnavi.com/tennisnakama/article/12

トニーの語る価値観は、常に仕事を基本にしたものだ。
「ギリシアの哲学者たちは幸福の起源について考え続けていました。幸福は、仕事から生まれるのか、それとも快楽から生まれるのか。禁欲的か快楽的かといったら、私もラファエルもストイックな禁欲主義者です。幸福は、働くことと規律正しさから生まれると私は思います。ラファエルが小さかったとき、私は彼に対して厳しかった。私はわざと悪いボールで練習をさせました。人生では、自分の持っていないものに不満を言うのではなく、自分の持っているものを生かして何とかやっていくことが大切なんだと彼にわかって欲しかったのです。コートの状態が悪い?わかってる、わかってる。さあ、試合だ。俺に何も言うな、お前がどんな文句を言っても聞かないよ。ただ、試合をして来い。そう言いました。こうして逆境を乗り越えることを覚えて欲しかったんです」


”人生では、自分の持っていないものに不満を言うのではなく、自分の持っているものを生かして何とかやっていくことが大切なんだ”

私はいつも、グランドスラム見ながら、プレーヤーの人間性を垣間見るような気がしているし
激しい競い合いのゲームの中に、人生そのものを見ることもあります。
この、トニーおじの言葉も、まさにテニスの枠を超えて、人の生き方そのものに通じるものがありますね。
トニーは、自分の確固たる信念、哲学をもっている人。
その彼が、ナダル4歳のころから指導をしてきたわけですから、
ナダルがなぜ、あのようにいられるのか、納得した思いがしました。

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椅子 [その他]

わが家では今、晴香の使っていた机を妹の沙織が、
沙織が使っていた机を私が使っています。

いずれも、子どもたちの小学校入学にあわせて購入したものですが
それ以来、机はもちろんですが
セットになっていた椅子も、ずっとそのまま使っていました。
さすがに中学生になった沙織には、椅子の高さが合わなくなってきたので
新しいものに買い換えることにしました。

古い椅子は、ガタつくようにもなっていたので、処分することに。
10年近く使い続けると、愛着がわいて、処分するのも淋しい気がします。
椅子自体には執着はないのに、淋しい気がするのはどうしてなのかな。
長い間子どもたちが使っていた物にはいろいろな思い出が染みついているので
それがなくなってしまうような錯覚を、一瞬おぼえるせいなのかもしれません。

そういえば、昨年の夏、15年近く使い続けた冷蔵庫を処分したときにも
冷蔵庫に貼ってあったポケモンのシールをみたときに
なんともいえない思いがしたものです。
冷蔵庫が運ばれていくときに、不安な想いに駆られたのは
懐かしい思い出が遠ざかっていくような、そんな気持ちになったからなのでしょう。

それでも、昨年よりもそういう気持ちは幾分薄らいでいるような気もします。
年月と共に・・・気持ちはかわってきているのか
それとも、あくまで物は物、という考え方ができるようになってきたのか。
はっきりとは、自分でもわからないけれど。


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晴香ちゃんのことを詠みし歌 [その他]

先週の木曜日早朝、親戚のAさんが亡くなられました。
1年以上、病と闘ってみえたのですが、
闘病中も気丈に振る舞われ
亡くなる前日まで、しっかりとお話しされていたそうです。
72歳。平均寿命から考えてもまだまだお若く、
無念だったこととおもいます。

お通夜の最後にお寺さんがお話しされた内容が心に残りました。

人は日常の中で、「死」というものをあまり深く考えることなく過ごしてますが
大切な人との別れによって、「死」というものが身近にあるものだということを
知らされます。
大切な人が、人の命の儚さやこの世の無常というものを
身をもって教えてくれるのです。・・・・・・・

そのようなお話しでした。
大切な人との別れはいつだって淋しくつらいものですが
それによって、はじめて知ることがあるというのも、考えてみれば皮肉なことにおもえます。


Aさんのことを考えるたびに、ある歌を思い出します。
それは、Aさんが晴香とのお別れの場面を短歌として詠んでくださったものです。
葬儀の数日後に、お手紙に添えていただきました。
  

     晴香ちゃんのことを詠みし歌

    15歳で逝きし少女は花柄の
         衣を纒いてほほえむ如し
 
    孫娘も少女の葬に泣きじゃくる
          柩にそいで歩歩を進めり

    永遠の眠りにつきし少女の
          閉じしひとみの長き睫よ 


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