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平生へ [その他]

こんにちは!お久しぶりです。
こちらのブログ、ほとんど休眠状態になってますね。
今回どうしても書いておきたいこと
書いておかなければならないことがあり、久しぶりにブログを開いています。
かなり長くなりそうですが、もしよかったら、お時間のあるときにでも読んでみてください。


以前このブログにも何度か父のことを書いてきましたが、
その父といっしょに行きたいと思っていた、山口県の平生に、
先日、とうとう行ってくることができました。

平生のことは、この日の日記に書いています。
「15歳の志願兵」より→
http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2010-08-13

いっしょに平生へ行こう、
という父との約束は果たせなかったけれど、
大学最後の年を迎えた娘が、今回いっしょについてきてくれました。

娘は来春から社会人
その前に、母娘で二人旅を、と計画した2泊3日の旅初日に、
平生の阿多田交流館を訪れました。


岐阜から平生までは、東海道線新幹線、山陽本線、そして岩国からはレンタカー
約5時間半あまり。朝早くでかけてついたのはちょうど正午ころ。
ほとんど半日がかりでした。
阿多田交流館に到着したときは、「ああ、やっと来ることができたなぁ」との思いが込み上げてきました。

交流館は、想像していたよりはこじんまりとしていました。
玄関正面には、真っ黒で大きな回天のレプリカが、どんと置かれていました。

hirao2.jpg

以前父に戦時中の話を聞いた時、
初めて平生に来て、回天を見たときに、
「真っ黒で窓のない、以前の魚雷学校で見たものとは比べ物にならないくらい大きくて驚いたし、
その異様なすがたはなんとも言えなかった。。怖いともおもった。」
と、父が語っていたことが思い出されました。

hirao6.jpg

こんなものに独り乗って、敵艦に体当たりしていくなんて、
考えただけでも身がすくみ、心臓が凍りつきそうです。

このような兵器が作られ実際に使われていたことが、
信じられないというか信じたくないというか、、
しかし現実にあったことなのですから、ちゃんと目を背けずに向き合わないといけません。


ということで、早速中に入り見学しました。
展示物は、当時使われていた教科書やノート、回天についての説明書き、
実際に使われていた軍服や旗や小道具、模型、千人針、寄せ書き、
みなさんの写真、回天で出撃された方たちが書かれた手記や手紙など。

当時使われていたというテキストの内容は、数学や物理など専門的なことで、
パッと見ても難しそうな内容。当時実施訓練だけでなく、
高度な専門知識も要求されていたのだということがわかりました。

こちらは大神基地のサイトより、回天の訓練内容について解説されています。
(回天基地は、山口県の大津島・光・平生、大分県の大神、全部で4か所あったそうです。)
http://oogakaitenkiti.wkeya.com/02oogakiti_3.html
こちらによると、回天の訓練には、大きく分けて、
学科訓練の「術科訓練」と、回天操縦訓練の「練成訓練」があったとのこと。
やはり、座学でもかなり勉強されていたようです。


手紙や手記、ノートの文字など、達筆なものが多く、それだけでも驚きだったのですが、
さらに、両親や身内の方々に対して書かれたその内容は、胸に迫るものがありました。

手紙のほとんどに、お国のためにわが身を捧げることは日本男児として本望・・という記述があり、
またどの手紙にも共通していたのが、両親や兄弟姉妹、祖父母、恋人や友人
などに対する感謝の気持ちと、自分が亡きあと、身内のことを心配した内容。
国のためという以上に、自分の父や母、愛する人たちを守るために出撃されていったのですね。
出撃されなくなった方たちの年齢は19歳とか21歳とか、ほとんどが20歳前後のまだ若き人たち、
周りの人たちのことを想うその純粋な気持ちに触れ、心震わせずにはいられませんでした。


戦後、部下の後を追うように自決されたという特攻隊の隊長であった橋口寛大尉、
隊長というからにはいくつか年上なのだろうから、30代くらいかとおもえば、
なんと21歳だったという。
部下とさほど年もかわらず、まだまだ年若いではないか。。
係り員の方のお話では、この橋口大尉がとくに、16歳以下の年少兵を可愛がっていたのだそうです。
父も当時16歳だったから、このお話をお聞きしてまた余計に親近感が湧いてきました。

当時どんな気持ちで部下に接し、終戦を迎え、そして自決されたのか。
残された橋口大尉の自啓録も展示されており、そこに書かれた言葉を読むと、
何十年も過ぎた今でも、その強い念が伝わってくるようです。

『君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを、
噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。
後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや』(遺書一部より)

自身、何度も出撃を願い出たのだけれど、教官として部下を育てる立場にあったため
なかなか許可がおりません。
何度も懇願した末、ようやく許可がでたのが8月20日出撃、
その前に終戦を迎えました。
多くの部下や仲間が戦死した中で、自分だけが生き残ると言うことは
考えられなかったのでしょう。
8月18日、ご自身が乗るはずだった回天の操縦席で拳銃自決されたのだそうです。

これほどに、部下や仲間のことを想い、人望もあった大尉が自決されてしまったこと、
残念でなりません。
もし生きていらしたら、戦後きっとどんなにか活躍されたことでしょう。


橋口大尉にかかわらず、実際直接現場でかかわっていらした方たちのほうが、
搭乗員や整備員のみなさんの気持ちがわかっていたようです。
そう思わせるような文章が展示物の中にもありました。

特攻兵器である回天は、いったん出撃すると敵艦に体当たりすることが目標とされているから、
生きて帰ってくることはすなわち失敗を意味するということで、
出撃し戻って来た者に対して、将校は酷く非難する。
しかし部隊の直接の指導者は、将校に対して、そのような叱責は、日々過酷な訓練を繰り返し
必死で頑張っている搭乗員の立場や気持ちをなにもわかってない、あんまりではないか、と書かれている。
(原文に書かれていたものを思い出し、概略のみまとめてみました。)

これがどういうものに書かれたのか(単に個人の日記なのかどうか)よくわからなかったけれど、
こういう文章をみると、現場で直接戦っている人たちと、日常的に現場に関わることなく
上から目線で物事を考える立場の人では、違ってきがちなのだと感じさせられる。
これはなにも戦時中にかぎらず、いつの時代でも同じようなことが言えるのでしょう。
戦後何十年も経った今も、残念ながら同じく。。



当時16歳だった父も、整備士としてその地にいたわけですが、
交流館の係りの方のお話では、整備の人たちもとても大変な思いをされていたのだという。
実際整備には3日間30時間もの時間がかかったらしい。
上の大神基地のサイトによると、一度訓練に使われた回天は、すべて分解し、
部品をバラバラにした後、また組み立て立てなければならなかったのだとか。
しかも、大神基地では30時間かかるところを、半分の時間で整備するように要求されていたとも。
平生の基地ではどうだったのかはわからないけれど、おそらくは同じようなことがあったのかもしれない。
整備と言えど過酷な任務であったにちがいないのでしょう。

以前父が、
整備員も搭乗員と一緒に乗っていった・・
と話していたことがちょっと疑問におもわれていたので(回天は一人乗り)
このことも尋ねてみたところ、
訓練では整備員もいっしょに乗っていくことがあったのだとか。
平生では訓練中に整備員が乗った時に事故がおきたことがなかったということですが、
他の基地ではもしかしたらあったのかもしれない。と話して下さいました。



全体を見学するのに1時間余り、
その後係員の方に、さらにいくつか質問をしたところ、親切にお答えくださいました。

不思議に思ったことの1つ、
出撃された方の多くが、甲種飛行予科練習生出身と書かれいることに対して、
なぜ飛行機乗りの方たちが、回天の搭乗員に選ばれたのかということ、
係り員の方のお話では、
終戦間際は飛行機が不足してしまったため、パイロットとして訓練を受けていた兵隊さんの多くが、
こちらの基地に配属されてきたのだそうです。
もちろん、特攻に対しての希望調査の上ではありましたが。
その調査は、熱望する・希望する・・・・辞退する
などのようにいくつかの項目があったそうですが、ほとんどの人が熱望すると回答されていたのだとか。
それ以外のところに丸をつけるということは選択肢としてありえなかった、
当時はそんな雰囲気だったのでしょう。

飛行機乗りが一転、回天搭乗員に。
おぼろげながらに聞いてはきたものの、実際に回天を眼の前にしたときには、
どんな気持ちになったことでしょう。
平生から出撃され亡くなられた方の多くが、この甲種飛行予科練習生出身だったようです。


この交流館近く、かつて回天の訓練が行われた海の見える場所に
回天記念碑が建っていました。
碑には、この平生から回天で出撃され亡くならなられた方(5名)、
訓練中の事故で亡くなられた方(3名)のお名前と、
終戦後に自決された橋口隊長のお名前が、刻ま込まれていました。

hirao3.jpg

周辺の海には国際貿易港ができており、立ち入り禁止になっていました。残念・・


記念碑の傍らには、回天の説明書きがありました。
hhiraosetumei.jpg


穏やかで美しいこの平生に、かつて過酷な訓練が繰り返された
回天の基地があったこと、
どれだけの人が知っているのだろうか。
ここで実際に訓練を受けていた人たちも、すでに高齢になられている。
ほぼ最年少ともいえる年だった父も、2年前に83歳で亡くなってしまった。
いつの間にか忘れ去られてしまうことのないよう、
これからも伝え続けていかなくてはいけない・・
こんな非人道的で悲惨極まる作戦が現実に行われていたということを・・・


父の水兵姿の写真を記念碑の前において、お参りをしてきました。
いっしょに写真も撮ってきました。
父は、どこかで見ていてくれたかな。

お父さん、やっと行ってくることができたよ。

平生、柳井、周防大島、
このあたりの穏やかで美しい海と多くの島々、
今も思い出されてきます。
思い切ってでかけてきて、ほんとうによかった。



交流館の中では、写真を撮ってこなかったのですが
こちらのサイトでは、阿多田交流館の内部の様子や、
個人のプライバシーにかかわらない範囲の写真や説明など、
かなり詳しく見ることができます
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn012/atadakou/atadako1.html


最後に、阿多田交流館のある田名一帯は、戦前のどかな塩田風景が広がる地域でしたが、
戦時中、この地に基地建設をするため、多くの住民の方が強制移住させられたのだそうです。
阿多田交流館前には、その住民の方々87名の名前が刻まれた
「ふるさとを偲ぶ」という碑が立っています。
何もなかったところに基地が作られたわけでなく、
多くの住民の方々の犠牲の上に作られた基地だったのですね。
戦後もずっと土地の返還運動があったそうですが、
住民の高齢化が進み、結局返還は果たされないままに、
1996年に和解したのだそうです。
この地には、回天の基地としてだけでなく、このような歴史があったのですね。




今回の旅のことは、
こちらのブログにも書いています。
よかったらどうぞ見にいらしてくださいね^^
http://diarygreen.exblog.jp/22298627/


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