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いのちはだれのもの~青草民人さんのコラム [思うこと]

美濃と飛騨を結ぶ、せせらぎ街道、
緑が美しくなってきました。
4月以降、もう何度も往復しました。

このせせらぎ街道、秋の紅葉もいいですが、
緑溢れるこの時期もまたいいものです。

冬の間一面雪に覆われ、すっかり葉をおとしてしまった木々は、
もう二度と葉をつけないのではないかとおもえてくるほどです。
しかし、春になり雪が溶け、枯れ木のようだった木々にも新芽が芽吹き、
黄緑色の若葉が少しずつ顔をだすと、そのあとはぐんぐんと葉を広げ、あっという間に一面緑に。
力強い生命力に驚かされます。

green4.jpg

紅葉から落葉へ、そして再び若葉がでてきて、しだいに深緑へと移り変わる、
このようすを、通るたび目にしてくると、
なんだか葉っぱ一枚一枚に、というよりはむしろ、
山全体、街道にある木々すべてが、ひとつの大きないのち、そのもののように感じられてきます。
すべてをまるっと包む大きないのち、そんな風に言ったらいいのでしょうか。。
大自然の中に身を置くからこそ感じられることなのでしょう。


そんなことをおもう今日この頃なのですが、
先日、ふらふらっとネットを徘徊中、
青草民人さんの
「いのちはだれのもの?」
とのタイトルで書かれた素敵なコラム出会いました。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/b755d08e9d65eb8c36acc2177458d733
ブログタイトル「三日坊主日記」より

「いのちは授かるものではなく、預かりもの、
いつかは返すもの」
とおっしゃる青草民人さん、
私の中にも、すっと入ってくる言葉でした。
コラムの中から一部、こちらにも紹介させていただきます。


『あらゆる縁の中で自分という器に届けられた「いのち」は、生まれてから死ぬまで、個人という器の中で、その個人を成長させ、人生という歴史を刻み、そして、「いのち」を次の世代に受け継いでいった。その役目を果たした器である個人は、預かった「いのち」をお返しした安堵の笑みをたたえて、安らかにまた器にもどる。』


いのちは父母、さらにはそのまた父母・・と、連綿と続いてきたいのちの連鎖によるものであり、
自分自身に届けられたいのちは、多くの困難や偶然性を乗り越えて伝えられてきたものでもあるのだとも。

私たちが今こうして生きているのは、数え切れないほど多くいのちを繋ぎ、いのちを伝えてきた、
まことに不思議な大いなるいのちの営みの結果であるのですね。
しかもそれは、個人に授かったものでなく、預かったものであって、いつかは返さなくてはならないものとも。

授かったというより、預かったと考える、至極しっくりいくような気がします。
預かったのだからいつかは返す。
人が最期のときを迎えても、それですべてがなくなったわけではなく、
あくまで預かったいのちを返したということ。
ひとりひとりのいのちはひとつひとつ勝手に始まって勝手に終わるのではないのですね。
大きな全体のいのちが、個に宿り、そしてまた返っていく、、

人も大自然も、みなこの大きないのちの営みの中にあるように感じられてきます。
深緑の中を走り抜けながら、ますますそんなおもいを強くしています。

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