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突然の訃報 [日々のできごと]

日曜日の夜、近所の知り合いのお通夜へ。
わたしよりまだ若くて、中学生のお子さんが2人。
うちのすぐ向かいのマンションで、このごろぜんぜん姿みないなあとおもってたら・・
病気だったことも知らず、突然の知らせにびっくり。

最後までフツーにすごしたいと、まわりの人に詳しく伝えず、
体調が悪いのにもかかわらず、PTA役員の仕事にもこの秋くらいまで
でてきてたのだという。

彼女との接点は、何年か前にマンションの役員をいっしょにしたこと。
そのときの一生懸命な働きぶりから、
おそらく最後まで、できることを精いっぱいされていったのだろうなあということが
想像されます。

なんだか、いい人ほど早くに逝ってしまうような気がするのは、気のせいなのだろうか?
私のように、気がきかなくて面倒くさがりのダメダメなのは、
自分の意思とは裏腹に、誰よりも長くこちらに留まるのかもしれない・・・

いっしょにした役員の仕事が終わってからは、
会うことも少なくなってしまったのだけど、
晴香を亡くした後、私のことを随分と気遣っていてくれたということ、
人づてに聞いて、彼女の優しさに、改めて涙・・
ありがとう、もう大丈夫だよ、と声に出して実際に伝えることはできないけど・・・

ああ、それにしても、もっといろいろ話しておけばよかった。。

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池田晶子さん、今年で5年 [池田晶子]

このところブログの更新が滞りがちになっています。
書けるのは、月に1度かせいぜい2度くらい、中には1度も書けなかった月もあります。
以前は書かずにいられないような気持に襲われたりもしたのですが、
そういう衝動のようなものが、徐々になくなってきたのかもしれません。

それでも、ニュースをみたり、本や新聞記事を読んだりすれば、
あれこれおもうことや、ちょっと書き留めておきたいなとおもうこともあります。
そのときにちょこちょこっと書いておけばいいのでしょうが・・
そのちょこちょこっと書くということがなかなかできない。
書き出せば、おもいは膨れ上がり、おそらくはちょっとでは済まなくなってしまうだろうから。
それに、すっきりと頭の中が整理されているわけではないから、
書き出せば、きっと悩みながら考えながら、思いのほか多くの時間がかかってしまうだろうから。
気がつけば、あのことも、このことも、書かずにきてしまったなあというのが本当のところ。

先日の23日は、池田晶子さんの5回目の命日でした。
私が池田さんのことを初めて知ったのは、彼女が亡くなった直後のこと、
あれから5年が経つのですね。
最初の1年目は、実にたくさんの作品を読みました。
「14歳の哲学」や「人生のほんとう」「あたりまえのことばかり」「残酷人生論」
「勝っても負けても41歳からの哲学」「暮らしの哲学」
これらのどれもが印象的なのですが、中でも「暮らしの哲学」は一番好きな1冊、
「残酷人生論」は今も私にとってバイブルのような存在です。

その後も、「知ることよりも考えること」「死と生きる 獄中哲学対話」などなど・・・
たくさんの作品と出会ってきました。
池田さんの作品との出会いは、私にとってなくてはならないものであったし、
それは今でもかわらず、そしてこれかもずっと。
その時その時で必要な出会いというものは、人と人の間に限らず、
人と書物、人と作家との間にもきっとあるのでしょう。

池田さんが亡くなられた後、当然新たに書かれることはないわけですが、
新シリーズが出されたり(これまでのものをまとめたり、新たな装丁で再販されたり・・)
これまでの作品も、絶えることなく版を重ねているようです。
作品を通して今も私たちに多くを語りかけてださっているようであり、
まさしく池田さんが日ごろおっしゃっていた「魂は存在し続ける」、これですね。

池田さんがよくおっしゃっていた、「善く生きることにこそ意味がある」
このことについて、しばらく考えていました。
娘を亡くした後にも、無常観に囚われ、不条理に憤りや虚しさをおぼえたものですが、
今回の震災を目にして、あのころ味わった強い感情が再び蘇ってくるような感覚を覚えました。
もちろんそういう感情を、しばらく忘れていたわけではなく、
年月と共に、少しずつ心の奥に奥にと仕舞い込んでいっていたと言った方がいいのかもしれませんが。。

人はいつか必ず死ぬ、
それなのに、たとえいかに生きたとしても意味があるといえるのだろうか。
そんなことを考えながらも、だからといって、
「人生に生きる価値はない」と中島義道著書タイトルの如く、言い切っておわってしまうのもなんだか虚しい。

そんな中、年末から年始にかけて、久しぶりに池田さんの著書を読んでみました。
「考える日々Ⅲ」、パートⅠとⅡはもうずいぶん前に読んだのだけど、
シリーズ最後であるこの本は、読みたいと思いつつ実際に手に取るまでにかなり時間が開いてしまいました。
いつでも読めるかなという気持ちと、なんとなく読んでしまうのがもったいないという気持ち両方からなのか。

この作品は、2000年の12月に初版が出版されているようですから、
かれこれ11年ほども前に書かれたことになるのですが、
中に取り上げられているニュースネタなどはともかく、書かれている内容自体は、
今にも通じる普遍なもの。
読みながら付箋だらけになってしまいました。

そんな中から、上に書いたことに関連する個所を、ちょっとだけこちらにもメモ。

『ソクラテスの意志』p243 L10~12
ある価値がその価値たりえるのは、それらを価値たらしめている精神がそこに自覚されているからでしかない。精神を自覚することなしに、いかなる価値も価値たり得ない。

この後、「生きる意味」について「善くあること」について、もうちょっと頭の中を整理したく、
以前読んだ『残酷人生論』を再び開いてみました。
今回はとくに、「善悪」「魂」「幸福」と、後半部分を特に中心として再読しました。

「幸福」人生は終わらない p225にはこんなことが書かれていました。

  人生は今回限りではない
  人生はこれで終わりではない
これである。この認識の厳しさこそが、善く苦しむための力なのだ。なぜなら、魂の完成形としての「神」もしくは「善」が明らかに見えている限り、人生が今回限りであるにせよ、それは徒労に終わったことにはならないからである。今回は今回で立派に完結するからである。
  どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

 
> どうせ死んでしまうのに
この半端な腹のくくり方が、いかに魂を堕落させることか。

最後のこの箇所には、ガツン!と頭を叩かれたような気持になってしまった・・
以前読んだはずなのに忘れていたのか自分。


再び『残酷人生論』より
「善悪」善悪は自分の精神にある p161~

 人の世の「なぜ悪い」をめぐるあらゆる議論が不毛なのは、内容によって形式を問おうとしているからだ。道徳を倫理だと思っているからだ。しかし道徳は強制だが、倫理は自由である。倫理は、直観された善への必然的欲求として行為されるから、自由なのである。善は、決して強制され得ない。それは、欲求されることができるだけだ。

善とは道徳ではない。欲求されるものである。
魂を意識してあるよき精神にこそ価値があり、善への必然的欲求もおきてくるというわけなのだろうか。
魂、精神・・・池田さんの書物を読み考える上で、大切なキーワードですね。

もうちょっと考えてみたくて、今はフランクルの『それでも人生にイエスという』を読み始めています。
読み終えたらまた、ここに本のこと書きたい、けれど・・・できるかな?

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受験シーズン [家族]

今年もまた受験シーズンになりました。
昨年の今頃、インターネットで受験大学の情報を見ながら、娘とどこに出願するか、
どの教科で受験するのか・・などと、あれこれいっしょに話をしていたことが
懐かしくおもいだされます。
はやいもので、あれからもう1年。

1年前には、こんな記事を書いてましたね。→http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2011-01-15
経験できるだけでも、いいこと
親子共にひとつの目標に向かい合えたいい時
あとから振り返ってみれば、そんな風におもえるのかもしれないけれど、
ただ今受験真っ最中という人やその家族にとっては、やはりなんとなく落ち着かない、
気が気でない毎日なのかもしれませんね。

私のまわりにも、子どもさんが今年受験という方が何人かいて、
会うと、たいてい受験の話題になったりします。
みな、大変そうだけど、結構多くの人の口から「浪人覚悟」という言葉を聞きます。
手続き上のことは別としても、肝心のところでは、やはり子どもががんばるしか仕方がないこと。
いくら親がヤキモキしたってどうしようもないどころか、むしろそれだと逆効果なのかもしれません。
親は覚悟を決めたら、あとは子どもに任せて見守るしかないんでしょうね。

1年前のこの時期受験生だった娘も、大学生になった今年は
昨日から、はや春休み。
まだまだ寒い日々なのに、もう春休みなのかと、
これから3月いっぱいまでとは、なんて長い休みなのかと、驚くばかり。

1年間の約束で、娘は名古屋まで通学していたのですが、
いよいよ3月半ばから下宿生活を始めます。
岐阜ー名古屋なら十分に通える距離なのですが、
なんでも自宅から通うと、いつまでも親に甘えて自立できないから下宿したいのだという。
普段料理も洗濯もほとんどしないのに、いきなり一人暮らしをして大丈夫なのかと、
心配はつきませんが、娘の成長のためには、それもいいのかもしれない、
いや、むしろそのほうがいいのかもしれません。(いまだに娘のお弁当を作っている甘々母・・)
ということで、春から娘は家を出て、一人暮らしを始めることになりました。

今はそれほど感じないのだけど、
いざ娘が出ていったら、淋しくてしかたなくなるのかもしれません。
娘は親離れのとき
そして、私自身そろそろ子離れのときがやってきたようです。

たとえ離れているとしても、娘はいつまでも自分の子どもであることには変わりなく、
娘にとっては私は親であることには変わりないのだけれど、
もうちょっとお互いが今までよりも対等に話し合えるというか、
少しずつおとなな関係になっていけたなら、
そしたら、今までとはまた違った新たな親子の関係を築くことができるような気もしています。
娘と母親としてだけでなく、大人どうし女性どうし、
これから先、どんな会話ができるようになるのか、ちょっぴり楽しみでもあります。
そんなこと書いていても、実際週末には洗濯物かかえて帰ってきたりして・・・(^^;)

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