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懐かしい・・・ [日々のできごと]

こんばんは
めちゃくちゃひさしぶりです!

前回の記事は8か月ほど前、
ちなみに前々回は、さらにその5か月前。
すっかり放置してしまってます(;´∀`)


このブログも、この秋で10年になります。
長く続いたものですね。

もう更新することもほとんどなく、休眠状態になってます。
閉鎖してしまおうかとか、あるいは新たな形で始めようかとか、
考えた時期もありましたが・・
そのどちらにもならず、おそらくはこれからもこのままになるのかな。。


ここは晴香と私との懸け橋になるところ。
以前のようにちょくちょく書き込むことはないだろうけど、
いつでも寄りたくなったら立ち寄れる、
何か書きたくなったらいつでも書き込むことができる。
そんなところを、やはり残しておきたいから。



少し日が過ぎてしまいましたが、
先月の27日は晴香の27歳の誕生日でした。

ちょうど沙織も岐阜に帰ってきていたので、
一緒にケーキとお花をお供えして、お祝いしました^^


hana.jpg



15歳だった晴香が27歳に・・・
あれからずいぶんと経ったものです。

忙しく過ごすこの頃、
感情をコントロールできず、苦しい思いに押しつぶされるようなこともなくなりました。
日々それなりに楽しく過ごしています。



妹の沙織も22歳。
この春大学を卒業し、社会人になります。
3月の初めには名古屋の下宿先を出て、3年ぶりに岐阜の自宅に戻ります。

高山に単身赴任中の夫は、来年度どうなるのか。。
岐阜に戻ることになれば、ひさしぶりに家族3人が揃うことになります。


家族が戻ってきたときのことを考えて、
このところ毎日のように、自宅の中を整理しています。
とにかくいらないののを処分して、スペースを作らないと・・

物置や押し入れの中の使わなくなったものや、本棚の本、
衣装ケースの中の衣類、、余分な食器などなど

整理していると、懐かしいものが出てきたり・・

先日も、押し入れの奥にしまい込んであった箱を開けてみたら、
アルバムに張り切れなかった昔の写真がでてきました。
子どもたちの小さいころのものがいっぱい。
懐かしくて、一枚一枚見入ってしまいました。


とくにこの嬉しそうな笑顔の写真、
おいしそうなケーキを前に、舌をぺろりとだして可愛らしい~!
懐かしい~!

ケーキ写真1の1.jpg


にこにこぷんのじゃじゃまる、ピッコロのエプロンも懐かしいなぁ。


それから、こんなものもでてきたり・・


eto.m.jpg



こちらは、夏休みの作品として、(たしか晴香が作った?!)干支のマスコット。
私も結構手伝ったような気がする(縫い目を見るとどこを手伝ったのかも・・)


いろいろ思い切って処分してるけど、
これはやはり捨てられないなあ。



こんな具合に、思い出のものがでてくるたびに手が止まり
作業はなかなかはかどりません(;´∀`)




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平生へ [その他]

こんにちは!お久しぶりです。
こちらのブログ、ほとんど休眠状態になってますね。
今回どうしても書いておきたいこと
書いておかなければならないことがあり、久しぶりにブログを開いています。
かなり長くなりそうですが、もしよかったら、お時間のあるときにでも読んでみてください。


以前このブログにも何度か父のことを書いてきましたが、
その父といっしょに行きたいと思っていた、山口県の平生に、
先日、とうとう行ってくることができました。

平生のことは、この日の日記に書いています。
「15歳の志願兵」より→
http://m-haruka.blog.so-net.ne.jp/2010-08-13

いっしょに平生へ行こう、
という父との約束は果たせなかったけれど、
大学最後の年を迎えた娘が、今回いっしょについてきてくれました。

娘は来春から社会人。
その前に、母娘で二人旅を、と計画した2泊3日の旅初日に、
平生の阿多田交流館を訪れました。


岐阜から平生までは、東海道線、新幹線、山陽本線、そして岩国からはレンタカーで
約5時間半あまり。朝早くでかけてついたのはちょうど正午ころ。
ほとんど半日がかりでした。
阿多田交流館に到着したときは、「ああ、やっと来ることができたなぁ」との思いが込み上げてきました。

交流館は、想像していたよりはこじんまりとしていました。
玄関正面には、真っ黒で大きな回天のレプリカが、どんと置かれていました。

hirao2.jpg

以前父に戦時中の話を聞いた時、
初めて平生に来て、回天を見たときに、
「真っ黒で窓のない、以前の魚雷学校で見たものとは比べ物にならないくらい大きくて驚いたし、
その異様なすがたはなんとも言えなかった。。怖いともおもった。」
と、父が語っていたことが思い出されました。

hirao6.jpg

こんなものに独り乗って、敵艦に体当たりしていくなんて、
考えただけでも身がすくみ、心臓が凍りつきそうです。

このような兵器が作られ実際に使われていたことが、
信じられないというか信じたくないというか、、
しかし現実にあったことなのですから、ちゃんと目を背けずに向き合わないといけません。


ということで、早速中に入り見学しました。
展示物は、当時使われていた教科書やノート、回天についての説明書き、
実際に使われていた軍服や旗や小道具、模型、千人針、寄せ書き、
みなさんの写真、回天で出撃された方たちが書かれた手記や手紙など。

当時使われていたというテキストの内容は、数学や物理など専門的なことで、
パッと見ても難しそうな内容。当時実施訓練だけでなく、
高度な専門知識も要求されていたのだということがわかりました。

こちらは大神基地のサイトより、回天の訓練内容について解説されています。
(回天基地は、山口県の大津島・光・平生、大分県の大神、全部で4か所あったそうです。)
http://oogakaitenkiti.wkeya.com/02oogakiti_3.html
こちらによると、回天の訓練には、大きく分けて、
学科訓練の「術科訓練」と、回天操縦訓練の「練成訓練」があったとのこと。
やはり、座学でもかなり勉強されていたようです。


手紙や手記、ノートの文字など、達筆なものが多く、それだけでも驚きだったのですが、
さらに、両親や身内の方々に対して書かれたその内容は、胸に迫るものがありました。

手紙のほとんどに、お国のためにわが身を捧げることは日本男児として本望・・という記述があり、
またどの手紙にも共通していたのが、両親や兄弟姉妹、祖父母、恋人や友人
などに対する感謝の気持ちと、自分が亡きあと、身内のことを心配した内容。
国のためという以上に、自分の父や母、愛する人たちを守るために出撃されていったのですね。
出撃されなくなった方たちの年齢は19歳とか21歳とか、ほとんどが20歳前後のまだ若き人たち、
周りの人たちのことを想うその純粋な気持ちに触れ、心震わせずにはいられませんでした。


戦後、部下の後を追うように自決されたという特攻隊の隊長であった橋口寛大尉、
隊長というからにはいくつか年上なのだろうから、30代くらいかとおもえば、
なんと21歳だったという。
部下とさほど年もかわらず、まだまだ年若いではないか。。
係り員の方のお話では、この橋口大尉がとくに、16歳以下の年少兵を可愛がっていたのだそうです。
父も当時16歳だったから、このお話をお聞きしてまた余計に親近感が湧いてきました。

当時どんな気持ちで部下に接し、終戦を迎え、そして自決されたのか。
残された橋口大尉の自啓録も展示されており、そこに書かれた言葉を読むと、
何十年も過ぎた今でも、その強い念が伝わってくるようです。

『君が代の唯君が代のさきくませと 祈り嘆きて生きにしものを、
噫、又さきがけし期友に申し訳なし。神州ついに護持し得ず。
後れても後れても亦卿達に誓ひしことばわれ忘れめや』(遺書一部より)

自身、何度も出撃を願い出たのだけれど、教官として部下を育てる立場にあったため
なかなか許可がおりません。
何度も懇願した末、ようやく許可がでたのが8月20日出撃、
その前に終戦を迎えました。
多くの部下や仲間が戦死した中で、自分だけが生き残ると言うことは
考えられなかったのでしょう。
8月18日、ご自身が乗るはずだった回天の操縦席で拳銃自決されたのだそうです。

これほどに、部下や仲間のことを想い、人望もあった大尉が自決されてしまったこと、
残念でなりません。
もし生きていらしたら、戦後きっとどんなにか活躍されたことでしょう。


橋口大尉にかかわらず、実際直接現場でかかわっていらした方たちのほうが、
搭乗員や整備員のみなさんの気持ちがわかっていたようです。
そう思わせるような文章が展示物の中にもありました。

特攻兵器である回天は、いったん出撃すると敵艦に体当たりすることが目標とされているから、
生きて帰ってくることはすなわち失敗を意味するということで、
出撃し戻って来た者に対して、将校は酷く非難する。
しかし部隊の直接の指導者は、将校に対して、そのような叱責は、日々過酷な訓練を繰り返し
必死で頑張っている搭乗員の立場や気持ちをなにもわかってない、あんまりではないか、と書かれている。
(原文に書かれていたものを思い出し、概略のみまとめてみました。)

これがどういうものに書かれたのか(単に個人の日記なのかどうか)よくわからなかったけれど、
こういう文章をみると、現場で直接戦っている人たちと、日常的に現場に関わることなく
上から目線で物事を考える立場の人では、違ってきがちなのだと感じさせられる。
これはなにも戦時中にかぎらず、いつの時代でも同じようなことが言えるのでしょう。
戦後何十年も経った今も、残念ながら同じく。。



当時16歳だった父も、整備士としてその地にいたわけですが、
交流館の係りの方のお話では、整備の人たちもとても大変な思いをされていたのだという。
実際整備には3日間30時間もの時間がかかったらしい。
上の大神基地のサイトによると、一度訓練に使われた回天は、すべて分解し、
部品をバラバラにした後、また組み立て立てなければならなかったのだとか。
しかも、大神基地では30時間かかるところを、半分の時間で整備するように要求されていたとも。
平生の基地ではどうだったのかはわからないけれど、おそらくは同じようなことがあったのかもしれない。
整備と言えど過酷な任務であったにちがいないのでしょう。

以前父が、
整備員も搭乗員と一緒に乗っていった・・
と話していたことがちょっと疑問におもわれていたので(回天は一人乗り)
このことも尋ねてみたところ、
訓練では整備員もいっしょに乗っていくことがあったのだとか。
平生では訓練中に整備員が乗った時に事故がおきたことがなかったということですが、
他の基地ではもしかしたらあったのかもしれない。と話して下さいました。



全体を見学するのに1時間余り、
その後係員の方に、さらにいくつか質問をしたところ、親切にお答えくださいました。

不思議に思ったことの1つ、
出撃された方の多くが、甲種飛行予科練習生出身と書かれいることに対して、
なぜ飛行機乗りの方たちが、回天の搭乗員に選ばれたのかということ、
係り員の方のお話では、
終戦間際は飛行機が不足してしまったため、パイロットとして訓練を受けていた兵隊さんの多くが、
こちらの基地に配属されてきたのだそうです。
もちろん、特攻に対しての希望調査の上ではありましたが。
その調査は、熱望する・希望する・・・・辞退する
などのようにいくつかの項目があったそうですが、ほとんどの人が熱望すると回答されていたのだとか。
それ以外のところに丸をつけるということは選択肢としてありえなかった、
当時はそんな雰囲気だったのでしょう。

飛行機乗りが一転、回天搭乗員に。
おぼろげながらに聞いてはきたものの、実際に回天を眼の前にしたときには、
どんな気持ちになったことでしょう。
平生から出撃され亡くなられた方の多くが、この甲種飛行予科練習生出身だったようです。


この交流館近く、かつて回天の訓練が行われた海の見える場所に
回天記念碑が建っていました。
碑には、この平生から回天で出撃され亡くならなられた方(5名)、
訓練中の事故で亡くなられた方(3名)のお名前と、
終戦後に自決された橋口隊長のお名前が、刻ま込まれていました。

hirao3.jpg

周辺の海には国際貿易港ができており、立ち入り禁止になっていました。残念・・


記念碑の傍らには、回天の説明書きがありました。
hhiraosetumei.jpg


穏やかで美しいこの平生に、かつて過酷な訓練が繰り返された
回天の基地があったこと、
どれだけの人が知っているのだろうか。
ここで実際に訓練を受けていた人たちも、すでに高齢になられている。
ほぼ最年少ともいえる年だった父も、2年前に83歳で亡くなってしまった。
いつの間にか忘れ去られてしまうことのないよう、
これからも伝え続けていかなくてはいけない・・
こんな非人道的で悲惨極まる作戦が現実に行われていたということを・・・


父の水兵姿の写真を記念碑の前において、お参りをしてきました。
いっしょに写真も撮ってきました。
父は、どこかで見ていてくれたかな。

お父さん、やっと行ってくることができたよ。

平生、柳井、周防大島、
このあたりの穏やかで美しい海と多くの島々、
今も思い出されてきます。
思い切ってでかけてきて、ほんとうによかった。



交流館の中では、写真を撮ってこなかったのですが
こちらのサイトでは、阿多田交流館の内部の様子や、
個人のプライバシーにかかわらない範囲の写真や説明など、
かなり詳しく見ることができます
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn012/atadakou/atadako1.html


最後に、阿多田交流館のある田名一帯は、戦前のどかな塩田風景が広がる地域でしたが、
戦時中、この地に基地建設をするため、多くの住民の方が強制移住させられたのだそうです。
阿多田交流館前には、その住民の方々87名の名前が刻まれた
「ふるさとを偲ぶ」という碑が立っています。
何もなかったところに基地が作られたわけでなく、
多くの住民の方々の犠牲の上に作られた基地だったのですね。
戦後もずっと土地の返還運動があったそうですが、
住民の高齢化が進み、結局返還は果たされないままに、
1996年に和解したのだそうです。
この地には、回天の基地としてだけでなく、このような歴史があったのですね。




今回の旅のことは、
こちらのブログにも書いています。
よかったらどうぞ見にいらしてくださいね^^
http://diarygreen.exblog.jp/22298627/


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26歳の誕生日 [日々のできごと]

晴ちゃん、26歳の誕生日おめでとう!

お父さんは高山、沙織ちゃんは名古屋、
なので、今日はお母さんひとりで晴ちゃんの誕生日お祝いしました^^
ケーキはないけど(ごめんね(^^;))、綺麗なアレンジメントフラワー見つけたよ!
ピンクのチューリップ、可愛らしいよね^^26歳になった晴ちゃんに似合うかな。

晴香誕生日.jpg

写真はまだ小学生くらいのころ。
随分と前のもので、とてもとても懐かしい。

26歳になった晴ちゃん、やっぱり想像できないよ。。



父のお墓参り [日々のできごと]

8月17日父の一周忌もすぎ、晴香の10年目の命日もすぎて、
気がつけば今年も、もうあと1か月とちょっと。
1日はそれなりにいろいろなことがあるのですが、
1週間、1か月とすぎてみると、なんだかあっという間に
過ぎ去ったような感じがします、このところは特にまた。

父が亡くなってからまだ1年とちょっと、
一番身近にいつもいっしょにいた母にとっては、
もっと複雑で、いろいろ思い悩む1年だったのかもしれません。
膝の手術も成功して、痛みもほとんどなくなり、
体が徐々に元気になってきたのとは裏腹に、
心のほうはまだまだ元気にはなりきれないようです。
外に出しきれない、なんともいえない淋しさがあるのではないかなと、
母を見ていて、そんなことも感じられてくる。

実家には車で30分ほどで行けるので、
なるべくちょくちょく顔を出すようにしている。
母娘で、ときどき父の想い出話をしながら、
あれこれおしゃべりすれば、母も気が紛れるだろうから。

そう、悲しさや淋しさは、時間がたってもそうそうなくなるものじゃないから、
かといって、じっと悲しみの中に浸っていては気持ちも塞がるばかりだから、
なにかで気を紛らわせるしかないんですよね。
私もそうだったから。

先日、実家に行った折、父のお墓まいりをしてきました。
命日でもお盆でもお彼岸でもなかったけれど。
なかなかそういう日にぴったり合わせていくことができなかったら、
この日は何でもない日だったけれど、ただなんとなく。

墓地のまえにある大龍寺のドウダンツツジが赤く紅葉していました。

d.doudan.jpg

今年はちょっと赤がくすんでいるよう。
例年はもう少し赤が鮮やかなのだと、母は話していました。
市内でみかけるあちこちの街路樹も、
高山に向かうせせらぎ街道沿いの紅葉も、
今年は、赤くなる前に葉が枯れてしまったりと、
今一つなようです。あまりにもこの夏が暑過ぎたせいなのでしょうか。
来年もし、もっと鮮やかな赤に紅葉していたら、
お寺のお庭のつつじ、拝観させてもらうことにしましょう。

周辺の山の紅葉、お寺の周囲一面のドウダンツツジ、
そして墓地の背後には、如来像もいらっしゃる、
父は綺麗な景色に囲まれた静かなところで眠っています。

10年がすぎ、晴香の納骨もそろそろ考えたほうがいいのかな。
こちらは、父とはちがい、ちょっと離れた山の方になるのでそんなに気軽には
行けなくなってしまうのだけど。。
十三回忌は再来年、十七回忌となるとさらにまたその4年後ということ。
さて、どうしようか。



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「救出死」で英雄視とバッシング [思うこと]

少し前に、横浜市内でおきた踏切での痛ましい事故。
倒れていた男性を助けようと、遮断機をくぐり、
男性は助けたものの、自らは電車にはねられ命を落としてしまった、
なんともやりきれないあの事故のこと。
自らの危険を顧みず、勇気ある行動と、マスコミを通じ、
多くの称賛の声が寄せられていました。

その報道を見聞きするたびに、
なんともいえない違和感のようなものを覚えていました。
それでも、それを外に向かって示すことは躊躇われるような、
なにかをまた、同時に感じながら・・

そんななにやらもやもやっとした感情を、
心の奥に持ったまま、この数日が過ぎたのですが、
今日、この記事を目にして、
「ああ、やはり。」
報道をみて、私が感じていた違和感は、これだったのだなと。

救出した女性が、人としておもいやりのある素晴らしい人であることには、
もちろん違いないのですが、
結果として助けた女性が犠牲になってしまったという事実があるのに、
加熱しすぎともいえるほどの美談としての報道、総理大臣からの感謝状、
それらは、ほんとうに必要なことなのだろうか。

http://www.excite.co.jp/News/society_g/20131017/asahi_20131017_0001.html


人の命を助けることはすばらしいことだけれど、
自分自身の命を落としてしまうことで、また新たな悲しみが生まれてしまうのです。
助けた人の家族、親しい人たち。
そして、助けられた人も、精神的な重荷を負ってしまうことがあるのかもしれません。

今回のように不幸にして、助けた人が亡くなってしまっているのなら、
関根さんのお姉さんがおっしゃるように、そっとしておくべきことで、
過度に称賛すべきことではないとおもうのです。
ましてや、助けられた人へバッシングしたり、助けた人の家族が悲しむことが
できないような雰囲気を作り出してしまうことなど、あってはならないともおもうのです。


こんな私の考えにまた、違和感をいだかれる方もいらっしゃるのかもしれません。
人それぞれの感じ方があるのですから、それは仕方ありませんね。
逆にまた、私のおもいに、共感してくださる方も、きっといらっしゃるのでしょうね。


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父母のこと 晴香のこと ブログのこと [思うこと]

今年の夏は大変な酷暑になりましたが、みなさんいかがお過ごしですか。
私が暮らしている岐阜市から、ちょっと離れたところには、
少し前まで熊谷市とならんで全国一暑い街と言われていた、多治見市があります。

多治見市ほどではないにしても、岐阜市も内陸部のためか、かなりの暑さになります。
この夏はたしか16日間連続の猛暑日を記録し、過去最高だったとか。
暑さの中、この夏はいろいろなことがありました。

7月の終わりには、父の納骨と一周忌の法要が2週続けてありました。
お盆には山岡へお墓参りに、
帰ってからは、少し遅ればせながらも実家へ出かけ、お盆と父の命日のお参りをしてきました。

大変に暑い暑い中での法要やお墓参り、
お盆と命日が過ぎ、母はかなり疲れてしまった様子でした。
1年が過ぎ、きっといろいろな思いも巡っていることでしょう。
私自身のことを思い返しても、1年目というのは、ほんとうに複雑なおもいでいっぱいでした。

普段は忙しさの中で気が紛れていても、
じっと父のことを思い返してみれば、優しい父がいなくなってしまったこと
もう父にはこちらでは逢うことができないことが淋しくてたまらなくなってきます。
ずっといっしょにいた母は、きっともっともっとつらく淋しく、悲しくて仕方がないことでしょう。
おそらく今は、心身ともに疲れてしまっていることだろうけれど、
それでも、母にはこれから、つらい悲しいばかりではなく、
楽しいこともいっぱい経験していってほしい。
そのために膝の手術も受けてがんばったのだから。きっと大丈夫だろう、そう信じよう。。
父も、母が膝を治して、元気に過ごしていくことを、きっと願っていることだろう。


父のことをおもうとき、どうしても晴香のことをおもわないではいられません。
もうすぐまた晴香の命日がやってきます。
今年で10年。
逢えなくなってもう10年が経とうとしています。
10年を節目に・・と考えることもあるのですが、
実際にどうしようかとか、具体的にはなっていません。

このブログも、あまり書かなくなってきたし、
10年を境に、もうやめようかなとも考えたりしましたが。
なかなかすっぱりとやめてしまう決断もできずにいます。
それなりに読んだ本のことや、思うことなど、
書いておきたいなとおもうことはあるのですが・・
以前のように、とにかく書かずにいられないというようなことがなくなり、
忙しさの中で、つい書きそびれて終わってしまうことが多くなっています。

ひとりになり時間があると、悲しみにどこまでも沈み込み
苦しくて仕方がなかったころ、
つらさから逃れるために、用事をつくったりわざと忙しくしていたようにおもいます。
今では、無理にではなく、日常のことで自然に忙しい毎日を送っています。

書かずにいられなかったころ、
書くことで癒されていたころ、
あの頃からは、気持ちは変わっていっているようです。
自分にとってのこのブログの役割も、変わってきたのかもしれません。
もうこういう場がなくてもいいのかな。
いや、まだ書かなければいけないこともあるような気がする。

どうしたものか。
今も迷い中だけど。。
やめるべきか、このまま細々ながらも続けていくか、
あるいは、別のところで形を変えて続けていくか・・
結局なにも変わらないかもしれないけれど、もう少し悩んでみることにします。



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父の納骨と参議院議員選挙 [日々のできごと]

父が亡くなってから、もうすぐ一年が経とうとしています。
一年を前にして、昨日、父の納骨をしてきました。

昨年の春から夏にかけて、父は病院に入退院を繰り返し、
病と闘っていたのでした。
まだ一年前には、父と話すこともできていたのだなぁと、
今おもうと、なんとなく不思議な気持ちになります。
あれからもうずいぶんと長いこと経ったような、
父に逢えなくなってから、たくさんの時間が過ぎ去ったような、
そんな感覚になります。

父が亡くなった後、冬には母が両膝の手術をし、
いろいろ心配した時期もあったものの、
今では、もうほとんど杖なしで歩くことができるほどに回復しています。
父が生きているときだったら、この母の姿をどんなにか喜んでくれたことでしょう・・
いや、もしかしたらどこかで父は母のことを見守り、そして喜んでいてくれるのかもしれませんが。。

緑いっぱいの山の麓近く、
どこからともなく聞こえてくる、ウグイスの声、
真正面に建つ真新しい如来像に見守られた静かな墓所に、父のお骨を納めてきました。
来週土曜日、今度は一周忌のおまいりをしてきます。


日ごろゼミで忙しくなかなか帰ってきていなかった娘も、
名古屋から帰ってきて、昨日はいっしょにおまいりをしました。

そして、今日は参議院議員選挙の日。
岐阜の候補者はよくわからないと、当初あまり気の進まないようすだった娘を
ひっぱって、いっしょに投票してきました。
偶然なのか、娘と投票した先はいっしょでした。
(ちなみに前回の衆議院選挙の時も、今回と別の党で、同じところに入れてました。
相談したわけじゃないのに、親子って考えがいつの間にか似てくるのかな?)

今回は、これからの方向性を決めるとても大切な選挙、
それなのに投票率は低くなりそうとか、若者の棄権が多いとか、
とても残念なことが言われています。
実際、今日投票所でも、若い人はあまり見かけなかったですね。
もっとも若者は、真昼間などに投票に行かないのかもしれないけれど。

多くの人が投票した結果であるならよいのですが、
あまりにも低い投票率で、これからの日本の方向が決まっていってしまうのは、
なんとも残念でしかたないです。
選挙結果も気になるけれど、投票率もどんなになるのか気になるところですが・・・(;´ρ`)


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いのちはだれのもの~青草民人さんのコラム [思うこと]

美濃と飛騨を結ぶ、せせらぎ街道、
緑が美しくなってきました。
4月以降、もう何度も往復しました。

このせせらぎ街道、秋の紅葉もいいですが、
緑溢れるこの時期もまたいいものです。

冬の間一面雪に覆われ、すっかり葉をおとしてしまった木々は、
もう二度と葉をつけないのではないかとおもえてくるほどです。
しかし、春になり雪が溶け、枯れ木のようだった木々にも新芽が芽吹き、
黄緑色の若葉が少しずつ顔をだすと、そのあとはぐんぐんと葉を広げ、あっという間に一面緑に。
力強い生命力に驚かされます。

green4.jpg

紅葉から落葉へ、そして再び若葉がでてきて、しだいに深緑へと移り変わる、
このようすを、通るたび目にしてくると、
なんだか葉っぱ一枚一枚に、というよりはむしろ、
山全体、街道にある木々すべてが、ひとつの大きないのち、そのもののように感じられてきます。
すべてをまるっと包む大きないのち、そんな風に言ったらいいのでしょうか。。
大自然の中に身を置くからこそ感じられることなのでしょう。


そんなことをおもう今日この頃なのですが、
先日、ふらふらっとネットを徘徊中、
青草民人さんの
「いのちはだれのもの?」
とのタイトルで書かれた素敵なコラムに出会いました。

http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/b755d08e9d65eb8c36acc2177458d733
ブログタイトル「三日坊主日記」より

「いのちは授かるものではなく、預かりもの、
いつかは返すもの」
とおっしゃる青草民人さん、
私の中にも、すっと入ってくる言葉でした。
コラムの中から一部、こちらにも紹介させていただきます。


『あらゆる縁の中で自分という器に届けられた「いのち」は、生まれてから死ぬまで、個人という器の中で、その個人を成長させ、人生という歴史を刻み、そして、「いのち」を次の世代に受け継いでいった。その役目を果たした器である個人は、預かった「いのち」をお返しした安堵の笑みをたたえて、安らかにまた器にもどる。』


いのちは父母、さらにはそのまた父母・・と、連綿と続いてきたいのちの連鎖によるものであり、
自分自身に届けられたいのちは、多くの困難や偶然性を乗り越えて伝えられてきたものでもあるのだとも。

私たちが今こうして生きているのは、数え切れないほど多くいのちを繋ぎ、いのちを伝えてきた、
まことに不思議な大いなるいのちの営みの結果であるのですね。
しかもそれは、個人に授かったものでなく、預かったものであって、いつかは返さなくてはならないものとも。

授かったというより、預かったと考える、至極しっくりいくような気がします。
預かったのだからいつかは返す。
人が最期のときを迎えても、それですべてがなくなったわけではなく、
あくまで預かったいのちを返したということ。
ひとりひとりのいのちはひとつひとつ勝手に始まって勝手に終わるのではないのですね。
大きな全体のいのちが、個に宿り、そしてまた返っていく、、

人も大自然も、みなこの大きないのちの営みの中にあるように感じられてきます。
深緑の中を走り抜けながら、ますますそんなおもいを強くしています。

いまを生きるための歎異抄入門より~星野富弘さんの詩とかかわって [本(その他)]

星野富弘さんについて、柳田邦男氏以外にも
どなたかが書かれていたような気がしていながら思い出せずにいたのですが・・

3年ほど前になるでしょうか。
青木新門さんの「納棺夫日記」を読んでから、「歎異抄」に興味を持ち、
そのとき読んだ一冊が、佐々木正氏の「いまを生きるための歎異抄入門」でした。

この本には、星野富弘さんの、この詩「いのちより大切なもの」の引用を始め、
キュープラー・ロス、フランクル、河合隼雄、五木寛之、夏目漱石、三島由紀夫、青木新門・・
著名な文学者から心理学者まで、数多くの方々の言葉を引用されています。
また、オウム真理教、臓器移植問題などにも言及されたり、
単に「歎異抄」の解説だけにとどまらず、さらに広がりのある実に内容の濃いものになっています。


佐々木氏は、この本の中で2度、星野さんのこの詩を引用されています。
1度目は「歎異抄」第2章のところ、2度目は「無碍の一道」に触れた第7章のところです。

2度目の引用の中から、次に一部紹介したいと思うのですが、
その引用部分の前に、佐々木氏は<マ・コト>について、
『親鸞が死の問題に直面して求めた「ほんとうの仏教」、この<ほんとう>は、<マ・コト>と同じである。』と述べられています。


以下、p186~

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きることが嬉しかった。


 この詩の最初の2行は、いのちを最大の価値と位置付けたときの、私たちのすがたです。まさに「いのちあってのものだね」ということです。生きることを絶対の価値と見なしている。裏返せば、死ぬことが絶対の悪であり不幸の極みであることになります。
 生という言葉は、言うまでもなく対語です。反対を指示する言葉があるから、その意味が保たれているのですね。・・・・・・
 相対言語は(対語)は、相手がいなくなると存在できないのですね。生は死があってはじめて成り立つのです。その死を否定して生きることは、生を否定することと同等なのですね。死を認めない人生は、生きることの実質を喪失していることになります。
 ですから星野さんの詩の後半の二行は、死ぬ事実を承認したところから、生まれてきた言葉だとおもうのです。生と死が表裏である(仏教では一如といいます)と納得したとき、はじめて感得された実感ではないかと思うのです。死を承認したとき、生だけで成り立っていた価値はすべて色あせてしまう。そのときに<マコト=ほんとう>がいちばん切実な問題として浮かび上がってきた。そのような経路をたどって生まれた言葉が、この詩の後半の二行ではないかと思うのです。



<マコト>とは、親鸞の求めた<ほんとうの仏教>の<ほんとう>と同じであり、
「歎異抄」第7章冒頭の「無碍の一道」にも通ずるものであると、佐々木氏は述べられています。
「いのちより大切なもの」すなわち「マコト」であり「ほんとう」であるものの発見の瞬間
「無碍の一道」が足元に開かれ、「ほんとうの自由」が目の前に広がってくるのだということ、
このマコトについても、佐々木氏はもう少し詳しく述べられているのですが、こちらでの紹介はここまでとしておきましょう。



いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

いまを生きるための歎異抄入門 (平凡社新書 (070))

  • 作者: 佐々木 正
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 新書



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「いのちより大切なもの」 [星野富弘]

昨年出会った本の中からもう一冊、
星野富弘さんの詩画集『いのちより大切なもの』

星野さんのことはいろいろなところでお名前を拝見していましたし、
その作品もどこかで目にしたことはありました。
数年前に読んだ、柳田邦男氏の『言葉の力、生きる力』の中でも
紹介されていましたし。
そのころからちょっと気になっていて、いつかじっくり読んでみたい
見てみたい、とおもっていたのでした。

そうおもいながらもなかなか作品を手に取る機会がないままになっていたのですが、
昨年末ころ、偶然にこの作品に出会い、そのタイトルに惹かれ、
迷わずその場で購入したのでした。

星野富弘さんの描かれる花の絵は、色彩鮮やかで生き生きとして目を惹かれますが、
その絵以上に、花の絵に添えられた詩が素晴らしく、
読んでいて、心にじんわり沁みてきます。

この作品には、ところどころに星野さんのエッセイが書き加えられており、
絵や詩以外からも、星野さんのおもいをさらに知ることができます。
3.11の震災後に出版されたこの作品には、震災当日のことや、
その後の彼のおもいなども書かれています。

若いころの事故により、手足の自由を奪われ、
絶望の中から「生きる」ことや「いのち」について見つめ続けてきた星野さんだからこその
深いことばが詩画集とともに伝わってきます。

その中でもとくに惹かれた部分。

 『この災害で多くの方がいのちを亡くされました。昨日までそばにいた家族が、友人が、突然いなくなってしまったのです。いのちがいちばん大切だとしたら、健康で長く生きることだけが価値ある人生なのだとしたら、生きるのは、あまりにも悲しくて苦しい連続ではないでしょうか。』

 『私は以前、「いのちより大切なものとは?」と聞かれた時には、こう答えていました。「その答えはこうですよ、と言うことは簡単だけど、きっとそれは意味のないことです。自分で苦しみながら見つけた時に、あなたにとって意味があるのです」と。』


「いのちより大切なもの・・」この星野さんのことばに、自分のおもいや、
日ごろ自分が抱いている違和感とも重なり、共感を覚えたのでした。
といっても、命を軽視しているわけではなく、
いのちが大切なものであることはもちろんのことであるし、
自分のいのちも人のいのちも大切にしなければいけないことは当然のことでもあります。
また、星野さんもおっしゃっているように、せっかく与えていただいたいのちなのですから、
より良く生きたいともおもうのです。

そういうおもいとは別に、
「命より大切なものはない」とか「この世の中で一番大切なものは命」
よく言われるこの言葉に対する違和感、
同じ違和感を星野さんも感じていらしたということがわかり、
なんとな嬉しいような気持になったのでした。

星野さんは、口に筆をくわえ絵や文を書かれるようになった2年余り後に、
病室にてキリスト教の洗礼を受けていらっしゃいます。
詩の中には度々「神さま」という言葉が登場しますし、
他にも「キリスト」「マタイの福音」「許す」・・・などの言葉が。
キリスト教洗礼の影響が、詩画集の中にも多くみられるようです。
私には特定の宗教を信じる心はないのですが、
宗教を超えて伝わるものが、ここにはあるようにおもいます。

口に筆を加えて描かれたとはおもえない、鮮やかに緻密に描かれた絵と
それと一体になった詩、どの作品も素晴らしく見ているとしみじみ癒されます。
この本もまた、私の傍らにいつまでも置いておく一冊になりそうです。



最後に、柳田邦男著「言葉の力、生きる力」の中から。

『人は身体が不自由になった時、心で生きる。
 人は身体が動かなくなった時、心で世界を見る。
 心が身体の分まで生きる時、心は言葉に魂を投影させる。だから、その言葉はいのちの響きを持つのだ。
この十年余り、星野富弘さんの詩画集を折々に開いては、絵筆がたどった跡をゆっくりと追い、言葉を一行ずつ 区切って静かに音読するという読み方をしてきたが、その度に右に書いたことを想う。』



いのちより大切なもの (Forest books)

いのちより大切なもの (Forest books)

  • 作者: 星野富弘
  • 出版社/メーカー: いのちのことば社
  • 発売日: 2012/11/08
  • メディア: 単行本



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